谷利(孫権の側近)
孫権の側近で使い走りをしていた人物に、
谷利という一風変わった名前の人物がいました。
生真面目な性格で、
孫権からの信用も厚い人物だったといいます。
谷利の素性は一切不明ではありますが、
一説には「奴隷であった」と言われていますね。
そんな谷利の記録ですが、
「江表伝」「水経注」に記載がされていたりしますが、
「江表伝」には谷利が奴隷出身だという記載は普通にありません。
また裴松之は陳寿の「三国志」の谷利の注釈として、
「江表伝」の記載を用いています。
孫権の命を救った第二次合肥の戦い
谷利の名前が登場するのは、
215年に勃発した第二次合肥の戦いになります。
孫権は十万人という圧倒的な兵力で合肥に兵を向けたのですが、
この時に合肥を守っていたのは、
張遼・李典・楽進率いる七千の兵のみでした。
この時の曹操は漢中方面の対策をしていたわけですが、
もしもの時の事を考えて、曹操は薛悌に、
「指示書が入った箱」を保管させていました。
そして孫権が合肥へ兵を向けたことで、
薛悌はその箱を開いて指示書を張遼らに見せたわけですが、
「張遼・李典は共に出撃し、
楽進は城を守れ!」とそこには書かれてありました。
張遼と李典はその指示に従って出撃し、
孫権軍の出鼻を挫くことに見事に成功しています。
またその後はサッと城へ引き揚げ、籠城の構えを取ったのでした。
この時に張遼・李典が率いた兵は、
たったの八百人だけだったといいます。
しかしこの突撃によって孫権軍が混乱を起こし、
大きな被害を出したわけでして・・・
少数の兵しか置いていなかった合肥城に対して、
勢いそのままに城に近づける事の危険性を曹操は理解していたのでしょうね。
出鼻をくじかれてしまった孫権でしたが、
なんとか合肥の城を攻略しようとするも戦果は上がらず、
十日程度で合肥の包囲を解いて撤退を開始します。
大軍であるが故の食料不足、もしくは疫病の問題も出たのかもしれませんし、
士気も上がらずの状況だったのかもしれませんね。
孫権の軍勢が逍遥津にまで撤退し、
その際に孫権は将軍らより先に兵士の者隊を先に撤退させていたようで、
最後に残っていたのは「近衛歩兵千人のみ」だったといいます。
またこの時に孫権以外に、
呂蒙・凌統・甘寧・蔣欽の将軍らが残ってました。
そんな折に「狙っていた!」と言わんばかりに、
張遼が急襲してくるわけです。
これにより孫権は危機的状況に陥るわけですが、
ここで孫権を命がけで守ったのが三百人の兵士率いる淩統でした。
ただ命懸けで孫権を守るものの、
凌統軍はまた一人また一人と討ち死にしていくことに・・・
そんな中でなんとか孫権は、
逍遥津にかかる津橋まで到達するわけですが、
津橋の一部が既に破壊されていたと言います。
橋が壊れていることに躊躇している孫権に対して、
「谷利は孫権の乗る馬に鞭を入れて勢いをつけさせ、
そのまま橋を飛び越えさせた」といいます。
これにより孫権は無事に撤退することに成功したのでした。
そして孫権は谷利の功績に報いるべく、都亭侯に封じています。
「石陽の戦い」へ向けて(乗船中)
谷利の名前が次に登場するのは、
合肥の戦いから約十年後になる石陽の戦いです。
曹丕が崩御した報告を聞いた孫権は、
武昌において自ら乗船する為の大船を建造し、
その船が完成すると石陽へ向けて船を進めたわけです。
しかしそんな最中に強風に見舞われてしまい、
谷利は「転覆の危険性」から、
近くの樊口に向かうように舵取に命じたのでした。
ただそれを聞いた孫権は納得できず、
「このまま羅州に向かえ!」と孫権は変更させたのです。
孫権からの指示を受けた舵取りは、
「樊口」ではなく「羅州」に進路を取ろうとしますが、
その際に谷利は刀を抜き、刃先を舵取に向けて次のように脅したといいます。
「樊口へ直ちに向かえ!
もし向かわないようなら斬り捨てる!!」と・・・
谷利の鬼気迫る形相に、
舵取は孫権の命令ではなく、谷利の命令を聞いたのでした。
そして樊口に到着した孫権・谷利らでしたが、
それから間もなくして「風は更に強くなり、
身動きが取れなくなってしまう程だった」といいます。
その後は江夏太守であった文聘の奇策もあり、
孫権は撤退していくこととなります。
この時の文聘が用いたのが、
「空城の計」だと言われていますね。
戦後、孫権が谷利に対して、
「お前があれ程までに臆病者だと思わなかったぞ!」
と冗談交じりか本気かは不明として話しかけた際に、
「大王は呉の主であるにも関わらず、
不測の事態を軽んじておられた。
また大船の櫓も高く作られていた事で不安定で、
私の命を引き換えにする気持ちで樊口へとむかわせただけです。」
と谷利は言葉を返したのです。
谷利の言葉を聞いた孫権は、
これまで以上に谷利を大切に扱ったといいます。
そして孫権はこの時から「谷利」と呼ぶことはなくなり、
親しみを込めて「谷」と呼ぶようになったと伝わっています。