定軍山の戦いで黄忠に討ち取られた夏侯淵の息子であった夏侯覇(かこうは)は、 魏の名門夏侯一族ということもあり、魏の中で順調に出世をしていきます。 その上、夏侯覇は弓馬の腕に秀でていた夏侯覇は、 父であった夏 […]
「緩兵の計」で合肥新城を諸葛恪から守り抜いた張特(ちょうとく)
252年に呉の孫権が亡くなると、 それにつけ込んで諸葛誕(しょかつたん)・胡遵(こじゅん)が呉へ攻め込みました。 この時、魏の侵攻に対応したのが諸葛瑾の子である諸葛恪でした。 諸葛恪は丁奉・朱 […]
魏に存在したと思われる百日(100日)ルール ~百日守り抜けば降伏しても罪はなし〜
張特と諸葛恪のやりとりから見える百日(100日)ルールの存在 諸葛恪が攻めてきた際に張特は合肥新城の守りに徹しますが、 次第に諸葛恪によって追い込まれていきました(第五次合肥の戦い)。 &nb […]
曹操の禁酒令を平気で破って失敗するも、その失敗のお陰で最終的に出世を勝ち取った徐邈(じょばく)
曹操に仕えていた徐邈という人物がいましたが、 徐邈は統治能力に非常に優れており、軍事の面でも後に大活躍をすることになるのですが、 ここでは徐邈にまつわる「お酒」の話をしたいと思います。 酒好き、徐邈 &nb […]
游楚 -諸葛亮の第一次北伐敗因の原因を作った隴西太守-
若かりし頃の游楚(游殷&張既) 游楚ゆうそは馮翊郡こひょうよくぐんの出身(旧左馮翊郡)で、 游殷ゆういんの息子として誕生しています。 ちなみに游殷や游楚についての事は、 「魏志」張既伝の裴松之注の「魏略」に […]
第一次北伐で降伏した梁緒・梁虔・尹賞のその後の人生
諸葛亮(孔明)が第一次北伐を開始した際に、 天水太守であった馬遵(ばじゅん)が見回りをしていました。 住民が蜀に呼応するような動きがみられ、 その動きを知って恐れた馬遵は、 役所があった冀城を […]
誤った才能の使い方をしたが為に死を招いた楊修(楊脩/ようしゅう) 〜「鶏肋」「才は才に滅ぶ」~
楊修(楊脩/ようしゅう) 楊修は楊彪(ようひょう)の息子として生まれます。 楊彪はかつて三公である大尉にも任命された事があり、 楊家は、過去にたくさんの三公を輩出した名家でもありました。 そん […]
北伐を成功に導けたかもしれない天才戦略家、法正(ほうせい) 〜もう少しだけ長生きしてくれればと思わずにはいられない人物〜
夷陵の戦いで、劉備が陸遜に惨敗をしてしまうわけですが、 その報告を受けた諸葛亮(孔明)が、 「あぁ、もし法正が生きていたならば、呉への遠征を止める事ができただろう。 もし仮に止められなかったとしても、こんな […]
三国志演義で姜維の引立て役にされてしまった費耀(費瑶/ひよう)
費耀(費瑶/ひよう) 費耀の名が正史に登場するのは、 魏で張進(ちょうしん)が反乱が起こした際のことでした。 曹操が死んで曹丕が跡を継いで間もない時です。 張進は涼州張棭郡の出身でしたが、 そ […]
常に己の命を最前線に置き続けた勇将、楽進
楽進(がくしん) 蒼天航路(11巻13P)より画像引用 楽進は曹操が挙兵したあたりから既に曹操に仕えています。 ただ楽進が小柄な体格だった為、 楽進は戦場で戦う事に向いていないと判断していた曹 […]