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	<title>潼関 &#8211; なんでも三国志</title>
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	<title>潼関 &#8211; なんでも三国志</title>
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		<title>朱霊 -曹操に愛憎されながら、三代に仕えた歴戦の名将-</title>
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		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 13 Aug 2026 14:53:25 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[朱霊（しゅれい、字：文博） 朱霊の生年は伝わっていませんが、冀州清河国の出身とされる人物です。 &#160; 後漢末の群雄割拠から三国時代にかけて戦場を駆け抜け、 袁紹・曹操・曹丕・曹叡の時代に仕えた歴戦の将軍でしたが、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">朱霊（しゅれい、字：文博）</span></h3>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class=" wp-image-16195 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/08/朱霊-1536x864.png 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>朱霊の生年は伝わっていませんが、冀州清河国の出身とされる人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後漢末の群雄割拠から三国時代にかけて戦場を駆け抜け、</p>
<p>袁紹・曹操・曹丕・曹叡の時代に仕えた歴戦の将軍でしたが、</p>
<p>その名は張遼や徐晃ほど広く知られているわけではない人物でもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、冀州・徐州から荊州、関中、漢中に至るまで、</p>
<p>魏が勢力を広げていく重要な戦いにたびたび参加しており、曹操軍の中核を担った武将の一人だったといえます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして朱霊の生涯を語るうえで興味深いのが、</p>
<p>勇猛な将軍でありながら、曹操から一時的に軍権を取り上げられたという、少し複雑な関係です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それでも最終的には後将軍にまで昇進し、</p>
<p>死後には「威侯」の諡号を贈られ、魏の功臣として曹操の廟庭に祭られることになります。</p>
<p>そんな朱霊の生涯を見ていきましょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">袁紹のもとで頭角を現す</span></h4>
<p>朱霊が歴史に登場するのは、まだ袁紹が冀州を支配していた頃のことです。</p>
<p>当時、清河の季雍という人物が鄃県を挙げて袁紹に背き、公孫瓚に味方しました。</p>
<p>これを受けて袁紹は、朱霊に季雍を攻撃させます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、朱霊にとってこの戦いには、あまりにも残酷な事情がありました。</p>
<p>朱霊の母と弟を含む家族が、季雍の籠もる城内にいたのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>公孫瓚側はそれを利用し、朱霊を降伏させようとしました。</p>
<p>母や弟を城壁の上に連れ出し、朱霊に見せつけたのです。</p>
<p>普通なら、家族の命を守るために戦いをためらっても不思議ではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし朱霊は涙を流しながら、</p>
<p>「男が一度、人に身を委ねた以上、どうして家族を顧みることができようか」</p>
<p>という趣旨の言葉を述べ、戦いを続けました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして激しく攻撃して季雍を捕らえることに成功します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、その代償はあまりにも大きなものでした。</p>
<p>朱霊の母と弟を含む家族は、城中で殺されてしまったのです。</p>
<p>家族を失ってでも主君への義を貫いたこの逸話は、朱霊という人物の強い意志を物語っています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操との出会い</span></h4>
<p>その後、朱霊の運命を大きく変える出来事が起こります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操が徐州の陶謙を攻撃していた頃、</p>
<p>袁紹は朱霊に三つの営を率いさせ、曹操を援護するために派遣しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊は曹操の軍に加わって戦功を立てます。</p>
<p>そして戦いが終わると、他の袁紹配下の将軍たちは袁紹のもとへ戻っていきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが朱霊は違いました。</p>
<p>曹操の人物を高く評価し、そのまま曹操に仕えることを決意したのです。</p>
<p>しかも朱霊だけでなく、彼が率いていた兵士たちも朱霊に従って曹操のもとに残りました。</p>
<p>これは朱霊が兵士たちから強く信頼されていたことをうかがわせます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こうして朱霊は、袁紹軍の武将から曹操軍の将軍へと転身することになりました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">劉備とともに袁術討伐へ</span></h4>
<p>曹操の配下となった朱霊は、各地の戦場で活動を続けます。</p>
<p>建安４年（１９９年）には、路招とともに劉備の指揮下へ入り、袁術討伐に派遣されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、戦いが始まる前に袁術が病死したため、討伐戦そのものは実現しませんでした。</p>
<p>朱霊らは劉備を徐州に残したまま曹操のもとへ帰還します。</p>
<p>この時の劉備は、まだ曹操と決定的に対立する前の段階でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、まもなく劉備は曹操に背き、徐州で独自の勢力を築くことになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊が劉備と行動をともにした期間は短いものでしたが、</p>
<p>後に曹操と劉備が天下を争うことを考えると、非常に興味深い一場面です。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">冀州平定後、五千の兵を任される</span></h4>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-16176 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦い-1536x864.png 1536w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>袁紹が官渡の戦いで敗れ、その後に袁氏勢力が崩壊していくと、曹操は冀州を支配下に収めていきました。</p>
<p>その頃、朱霊は曹操から冀州兵五千と騎兵一千を与えられ、許都の南方を守る任務を任されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、この時に曹操は朱霊に対して、冀州兵の扱いについて注意を与えていました。</p>
<p>そして曹操の懸念は、まもなく現実となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>陽翟に到着したところ、中郎将の程昂が反乱を起こしたのです。</p>
<p>朱霊はただちにこれを鎮圧し、程昂を斬りました。</p>
<p>そして曹操に対して自らの監督責任を謝罪します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし曹操は、古代の鄧禹の故事を引き合いに出して朱霊を責めませんでした。</p>
<p>むしろ、部下の反乱を速やかに鎮圧した朱霊の働きを認めたのでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">荊州征伐にも参加</span></h4>
<p>建安１３年（２０８年）、</p>
<p>曹操が荊州へ進軍すると、朱霊もその軍勢に加わります。</p>
<p>この時、朱霊のほか、于禁・張遼・張郃・李典・路招・馮楷らが、趙儼の統括を受けることになりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操軍には数多くの将軍がいましたが、</p>
<p>朱霊はこうした名将たちと並んで軍を任される存在だったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、曹操は荊州を制圧して南下し、赤壁へと向かいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし赤壁では曹操軍が大敗し、曹操は北へ撤退することになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊自身について赤壁での具体的な活躍は詳しく記録されていませんが、</p>
<p>その後も曹操軍の重要な戦線で活動を続けています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">馬超との戦いで見せた働き</span></h4>
<p>建安１６年（２１１年）、関中の馬超・韓遂らが曹操に対して反乱を起こします。</p>
<p>いわゆる潼関の戦いです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は関中の軍閥を討つため、自ら大軍を率いて西へ向かいました。</p>
<p>この戦いで朱霊は、徐晃とともに曹操から重要な任務を与えられます。</p>
<p>それは、夜間に蒲阪津から黄河を渡り、黄河西岸に先回りして陣地を築くことでした。</p>
<p>朱霊と徐晃はこの任務を成功させます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この動きによって馬超は黄河西岸へ自由に進出することができなくなり、</p>
<p>曹操軍は戦略上の重要な地点を確保することに成功しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊の働きは派手な戦いを演じたりしたわけではありません。</p>
<p>しかし、こうした重要地点を迅速に確保する能力こそ、歴戦の将軍に求められるものでした。</p>
<p>朱霊はこのような実戦的な働きを積み重ねていきます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">関中・漢中でも戦う</span></h4>
<p>曹操が鄴へ戻った後も、朱霊は西方に残りました。</p>
<p>夏侯淵の指揮下に入り、隃麋・汧周辺の氐族討伐に参加します。</p>
<p>さらに長安周辺にも駐屯し、南山の劉雄を攻撃して、その兵を降伏させています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして建安２０年（２１５年）、</p>
<p>曹操が漢中の張魯を討つために出陣すると、朱霊もこの遠征に参加しました。</p>
<p>曹操軍が武都方面へ進もうとした際、氐族によって進路を阻まれます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで曹操は張郃と朱霊を派遣しています。</p>
<p>二人は氐族を撃破し、曹操軍の進軍路を確保しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊は、冀州・荊州・関中・漢中と、曹操が勢力を広げる主要な戦線に次々と姿を現しています。</p>
<p>まさに曹操軍の「戦場を選ばない将軍」だったといえるでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操から軍権を奪われる</span></h4>
<p>ところが、朱霊の人生には意外な出来事が起こります。</p>
<p>朱霊は曹操から、以前から何らかの理由で恨まれていたと正史『三国志』は記しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのため、時期は明確ではありませんが、曹操は于禁に命じて朱霊の軍営を接収させました。</p>
<p>于禁自ら朱霊の陣営へ赴き、曹操の命令を伝えます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>普通なら、長年軍を率いてきた将軍が突然その兵権を奪われれば、抵抗する可能性もあります。</p>
<p>しかし朱霊は抵抗しませんでした。</p>
<p>朱霊も配下の兵士たちも、于禁の威勢を恐れて、そのまま命令に従ったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>以後、朱霊は于禁の配下として活動することになります。</p>
<p>長年戦場で功績を重ねてきた朱霊にとっては、決して名誉な出来事ではありません。</p>
<p>しかし、ここでも朱霊は反抗することなく、曹操の命令を受け入れました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹丕から高く評価される</span></h4>
<p>曹操が死去し、曹丕が魏の皇帝となると、朱霊の評価は大きく変わります。</p>
<p>黄初元年（２２０年）、曹丕は朱霊のこれまでの功績を評価し、鄃侯に封じて領邑を加増しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに曹丕は朱霊を非常に高く評価し、</p>
<p>周の宣王を支えた方叔や邵虎よりも優れ、漢の功臣である周勃や灌嬰以上の功績がある、</p>
<p>という趣旨の言葉まで贈っています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これはかなりの高評価です。</p>
<p>そして曹丕は朱霊に、「望む土地を与えよう」と尋ねました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊が望んだのは高唐県（青州<ruby>平原国</ruby>）でした。</p>
<p>すると曹丕はその希望を認め、朱霊を高唐亭侯に封じました。</p>
<p>かつて曹操から軍権を取り上げられた朱霊でしたが、曹丕の時代になると、魏を支えた功臣として改めて評価されることになったのです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">呉との戦い、最後の戦場</span></h4>
<p>曹丕の死後、曹叡の時代になっても朱霊は現役の将軍として活動しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>太和３年（２２９年）には、曹休・賈逵らによる呉への遠征に参加しました。</p>
<p>この戦いでは曹休が呉軍に敗れ、危機的な状況に陥ります。</p>
<p>その際、朱霊は曹休を救援しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これが史書に残る朱霊の最後の軍事活動となります。</p>
<p>その後、朱霊がいつ亡くなったのかについては明確な記録がありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、最終的には後将軍にまで昇進していたことが伝えられています。</p>
<p>死後には「威侯」の諡号を贈られました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操の廟庭に祀られた朱霊</span></h4>
<p><img decoding="async" class=" wp-image-7922 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1.png" alt="" width="393" height="393" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1.png 3000w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-150x150.png 150w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-300x300.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-768x768.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-1024x1024.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-320x320.png 320w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-200x200.png 200w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/06/—Pngtree—guochao-chinese-style-architecture_7216534-1-100x100.png 100w" sizes="(max-width: 393px) 100vw, 393px" /></p>
<p>朱霊の死後、その功績はさらに高く評価されることになります。</p>
<p>正始４年（２４３年）、魏の皇帝曹芳は曹操の廟庭に功臣を祭ることを命じました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこには張遼、徐晃、張郃、楽進、于禁、夏侯惇、夏侯淵ら、</p>
<p>曹操を支えた数々の名将・功臣が選ばれています。</p>
<p>その中に朱霊も加えられました。</p>
<table style="width: 100%;">
<tbody>
<tr class="odd">
<td><span style="font-size: 14pt;">〈曹操廟に祀られた二十六人の功臣〉</span></p>
<p>-青龍元年（２３３年） 曹叡の治世《合計三名》-<br />
夏侯惇・曹仁・程昱</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-正始四年（２４３年） 曹芳の治世《合計二十名》-<br />
曹真・曹休・夏侯尚・桓階・陳羣・鍾繇・張郃・徐晃・張遼・楽進・華歆<br />
・王朗・曹洪・夏侯淵・朱霊・文聘・臧覇・李典・龐徳・典韋</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-正始五年（２４４年） 曹芳の治世《合計一名》-<br />
荀攸</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-嘉平三年（２５１年） 曹芳の治世《合計一名》-<br />
司馬懿</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-景元三年（２６２年） 曹奐の治世《合計一名》-<br />
郭嘉</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは朱霊が魏にとって、単なる一武将ではなく、</p>
<p>曹操の覇業を支えた功臣の一人として認められていたことを示しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊は正史『三国志』に独立した本伝を立てられてはいません。</p>
<p>主として「魏志」徐晃伝などに付随する形で記録されているため、後世ではどうしても目立たない存在になっています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、その足跡を追ってみると、</p>
<p>袁紹との戦い、徐州、荊州、関中、漢中、そして対呉戦線と、</p>
<p>曹操が天下の覇権を握っていく過程で、朱霊は実に多くの戦場を経験しています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">朱霊という人物像</span></h4>
<p>朱霊の生涯には、華々しい一騎打ちや劇的な武勇伝があまり残されていません。</p>
<p>しかし、それこそが朱霊という将軍の特徴だったのかもしれません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<ul>
<li>家族を犠牲にしてでも任務を果たした袁紹時代</li>
<li>曹操の器量を見抜き、袁紹のもとへ戻らず曹操に仕えた決断</li>
<li>徐晃とともに黄河を渡り、馬超の進路を封じた潼関戦</li>
<li>夏侯淵のもとで関中を守り、張郃とともに氐族を撃破した漢中戦</li>
<li>そして、曹操から一時的に軍権を奪われても反抗せず、于禁の指揮下に入った姿</li>
</ul>
<p>&nbsp;</p>
<p>朱霊は、華やかさよりも「軍人としての実績」で評価されるタイプの武将だったのでしょう。</p>
<p>曹操との関係には、信頼だけでは説明できない複雑さがありました。</p>
<p>それでも曹操の死後、曹丕は朱霊を高く評価し、後将軍にまで昇進させています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして最終的には、曹操の廟庭に祭られた２６人の功臣の一人となりました。</p>
<p>三国志の世界には、張遼や関羽のように誰もが知る英雄がいます。</p>
<p>その一方で、朱霊のように大きな戦場の陰で着実に任務を遂行し、魏の基礎を支え続けた将軍もいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その生涯を振り返ると、朱霊はまさに</p>
<p>「表舞台で天下を揺るがす英雄ではなく、数多くの戦場で魏の屋台骨を支え続けた、実戦派の名将」</p>
<p>と呼ぶにふさわしい人物だったといえるでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>賈詡 -乱世を生き抜いた「毒にも薬にもなる」最高峰の軍略家-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2026/06/23/%e8%b3%88%e8%a9%a1-%e4%b9%b1%e4%b8%96%e3%82%92%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%8a%9c%e3%81%84%e3%81%9f%e6%9c%80%e9%ab%98%e5%b3%b0%e3%81%ae%e8%bb%8d%e7%95%a5%e5%ae%b6/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 23 Jun 2026 13:29:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[賈詡]]></category>
		<category><![CDATA[郭汜]]></category>
		<category><![CDATA[官渡]]></category>
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		<category><![CDATA[張繍]]></category>
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					<description><![CDATA[賈詡（字:文和） 賈詡は後漢末から三国時代にかけて活躍した人物です。 &#160; 涼州武威郡姑臧県の出身で、若い頃は目立たない存在でしたが、 その卓越した洞察力と状況判断能力によって乱世を生き抜き、最終的には魏の三公で [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">賈詡（字:文和）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-15829 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/06/賈詡-6a3a88df526d2.jpg" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/06/賈詡-6a3a88df526d2.jpg 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/06/賈詡-6a3a88df526d2-300x169.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/06/賈詡-6a3a88df526d2-1024x576.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/06/賈詡-6a3a88df526d2-768x432.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2026/06/賈詡-6a3a88df526d2-1536x864.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>賈詡は後漢末から三国時代にかけて活躍した人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>涼州武威郡姑臧県の出身で、若い頃は目立たない存在でしたが、</p>
<p>その卓越した洞察力と状況判断能力によって乱世を生き抜き、最終的には魏の三公である太尉にまで上り詰めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>正史『三国志』においては、荀攸と並んで「張良・陳平に次ぐ知謀の士」と評される一方、</p>
<p>その策が時に冷酷であったため、後世の評価が大きく分かれる人物でもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>賈詡は若い頃、世間から高い評価を受けていたわけではありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、名士の閻忠だけは彼の非凡な才能を見抜き、</p>
<p>「張良や陳平に匹敵する人物である」と称賛しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その慧眼を示す逸話として有名なのが、帰郷途中に異民族である氐族に捕らえられた事件です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>同行者たちが次々と殺される中、賈詡は自らを当時名将として知られていた段熲の親族と偽り、</p>
<p>「私を殺せば大きな報復を受けるだろう」と巧みに相手を脅しました。</p>
<p>氐族はこれを信じ込み、賈詡を解放したと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この逸話は、後年の賈詡の「窮地でこそ真価を発揮する知略家」という性格を象徴するものと言えるでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">董卓政権と長安奪還</span></h4>
<p>董卓が洛陽を制圧すると、賈詡はその配下となります。</p>
<p>やがて董卓が王允・呂布によって討たれると、西涼軍の李傕・郭汜・張済らは離散しようとしていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし賈詡は彼らに対し、</p>
<p>「このまま逃げれば皆殺しにされるだけだ」</p>
<p>と説き、長安への反攻を進言します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>李傕らはこの策を採用し、長安を奪還することに成功し、</p>
<p>王允は処刑され、呂布は長安から逃走することとなりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>賈詡自身はこの功績によって高位高官を与えられそうになりますが、</p>
<p>これを辞退し、人事行政を担当する尚書として朝政に携わる形をとりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また李傕・郭汜らが内紛を起こそうとする度に仲裁役を務めており、</p>
<p>彼らから「親しみながらも恐れられる存在」であったと記録されています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">張繡の参謀として（宛城の戦い）</span></h4>
<p>長安政権が崩壊した後、賈詡は南陽の張繡に身を寄せます。</p>
<p>そして彼は張繡の最重要参謀として活躍することになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>建安２年（１９７年）、張繡は曹操に降伏しました。</p>
<p>ところが曹操は張繡の叔父である張済の未亡人を側室とし、さらに張繡暗殺の噂まで流れました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これに激怒した張繡は反乱を決意します。</p>
<p>賈詡は奇襲作戦を立案し、張繡軍は夜襲によって曹操軍を大破しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いで、</p>
<ul>
<li>曹昂（曹操の長男）</li>
<li>曹安民（曹操の甥）</li>
<li>典韋</li>
</ul>
<p>が戦死しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操の生涯でも屈指の大敗北でした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">張繡を曹操に帰順させる</span></h4>
<p>官渡決戦直前、袁紹は張繡を味方に引き入れようとしました。</p>
<p>張繡は有力な袁紹に従うべきか迷います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし賈詡は、</p>
<ul>
<li>曹操は天子を奉じている</li>
<li>勢力が小さいからこそ人材を厚遇する</li>
<li>天下を狙う者は私怨を優先しない</li>
</ul>
<p>と分析し、「今こそ曹操に降るべきです」と進言しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>張繡はこれに従い曹操へ帰順します。</p>
<p>そして賈詡の予想通り、曹操はかつて息子を死に追いやった張繡を厚遇しました。</p>
<p>この出来事は賈詡の人間観察力の鋭さを示す代表例として知られています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操軍最高峰の参謀へ（官渡の戦い）</span></h4>
<p>賈詡は帰順後、曹操の重要な参謀となります。</p>
<p>袁紹配下の許攸が投降し、「烏巣の兵糧庫を攻撃すべきです」と進言した際、多くの将が疑いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし賈詡と荀攸だけはその意見を支持します。</p>
<p>曹操は二人の進言を採用し、烏巣を焼き払うことに成功しました。</p>
<p>これによって官渡の戦局は一変し、袁紹軍は崩壊します。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操軍最高峰の参謀へ（潼関の戦い）</span></h4>
<p>建安１６年（２１１年）、曹操は馬超・韓遂連合軍と対峙します。</p>
<p>ここで賈詡は有名な離間策を献じました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>わざと韓遂との親密さを装わせることで馬超に疑念を抱かせ、馬超と韓遂の関係を決裂させます。</p>
<p>連合軍は内部崩壊し、曹操軍は勝利を収めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは正史に記録される賈詡の代表的な功績の一つです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹丕を後継者に導く</span></h4>
<p>曹操晩年、後継者問題が深刻化します。</p>
<p>曹丕派と曹植派が激しく争う中、曹操は賈詡に意見を求めました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし賈詡は黙ったままでした。</p>
<p>理由を問われると、「袁紹と劉表の親子のことを考えておりました」とだけ答えます。</p>
<p>袁紹も劉表も後継者選びに失敗し、一族が滅亡へ向かった人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>賈詡は直接言わず、「嫡子を立てるべきです」という結論を暗示したのです。</p>
<p>曹操はその真意を理解し、曹丕を正式な後継者に定めました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">晩年の賈詡</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11076 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/11/水墨-.jpg" alt="" width="799" height="532" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/11/水墨-.jpg 4247w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/11/水墨--300x200.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/11/水墨--768x512.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/11/水墨--1024x683.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 799px) 100vw, 799px" /></p>
<p>建安２５年（２２０年）、曹丕が魏王となると、賈詡は三公の一つである太尉に任命されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また曹丕から呉・蜀への対応を問われた際には、</p>
<p>「劉備には諸葛亮がおり、孫権には陸遜がおります。今は軽々しく戦うべきではありません」</p>
<p>と慎重論を唱えました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし曹丕はこれを採用せず、結果として対呉戦は大きな成果を挙げられませんでした。</p>
<p>黄初４年（２２３年）、賈詡は７７歳で病没します。諡号は「粛侯」。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>波乱の時代を渡り歩いた知将は静かにその生涯を閉じました。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">正史における賈詡の評価</span></h3>
<p>陳寿は賈詡について、</p>
<p>「荀攸とともに変化への対応に優れ、張良・陳平に次ぐ人物である」</p>
<p>と極めて高く評価しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一方で裴松之は、</p>
<p>「李傕・郭汜に長安攻撃を勧めたことで、さらなる戦乱を招いた」</p>
<p>と厳しく批判しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのため賈詡は、</p>
<ul>
<li>乱世最高峰の知略家</li>
<li>生存能力に長けた現実主義者</li>
<li>道義より結果を重視した策士</li>
</ul>
<p>として語られることが多い人物です。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">演義との違い</span></h3>
<p>小説『三国演義』でも賈詡は優秀な参謀として描かれていますが、</p>
<p>基本的な活躍は正史と大きく変わりません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>むしろ珍しく、</p>
<ul>
<li>張繡への献策</li>
<li>曹操への帰順進言</li>
<li>潼関での離間計</li>
<li>曹丕擁立</li>
</ul>
<p>など主要な功績の多くがそのまま採用されています。</p>
<p>そのため賈詡は、「演義でも正史でも評価が高い数少ない参謀」と言えるでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後漢末から三国時代にかけて数多くの英傑が現れましたが、</p>
<p>賈詡ほど幾度も主君を変えながら生き残り、最後には魏の最高首脳部にまで到達した人物は極めて稀です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その知略は荀彧のような王道でも、郭嘉のような華麗さでもなく、</p>
<p>「いかに生き残り、いかに勝つか」を徹底して追求した現実主義の知恵でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それこそが、賈詡が後世において「毒士」とも「名軍師」とも称される所以なのです。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>龐徳 -最後まで忠義を貫いた涼州の猛将-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2021/03/21/%e9%be%90%e5%be%b3-%e6%9c%80%e5%be%8c%e3%81%be%e3%81%a7%e5%bf%a0%e7%be%a9%e3%82%92%e8%b2%ab%e3%81%84%e3%81%9f%e6%b6%bc%e5%b7%9e%e3%81%ae%e7%8c%9b%e5%b0%86/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 21 Mar 2021 12:11:38 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[龐徳]]></category>
		<category><![CDATA[「蜀志」関羽伝]]></category>
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					<description><![CDATA[龐徳（ほうとく、字：令明） 龐徳は、涼州南安郡狟道県の出身です。 &#160; 生年については正確な記録が残っていませんが、 若い頃から郡吏や州の従事を務めており、 決して最初から一介の武人として生きていた人物ではありま [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">龐徳（ほうとく、字：令明）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16187 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/龐徳.png" alt="" width="800" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/龐徳.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/龐徳-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/龐徳-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/龐徳-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/龐徳-1536x864.png 1536w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></p>
<p>龐徳は、涼州南安郡狟道県の出身です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>生年については正確な記録が残っていませんが、</p>
<p>若い頃から郡吏や州の従事を務めており、</p>
<p>決して最初から一介の武人として生きていた人物ではありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、後漢末の涼州が大きく乱れると、龐徳は馬騰の軍に従うようになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>初平年間、龐徳は馬騰に従って、反乱を起こしていた羌族・氐族を討伐しました。</p>
<p>この戦いで何度も功績を挙げたことから、次第に昇進して校尉となります。</p>
<p>この時点ですでに、龐徳は馬騰軍の中でも勇猛な将として頭角を現していたのでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして龐徳の名前を一躍天下に知らしめることになるのが、</p>
<p>建安７年（２０２年）に起こった郭援・高幹らとの戦いでした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">郭援・高幹との戦い</span></h4>
<p>建安７年（２０２年）、曹操が袁紹の遺児である袁譚・袁尚と戦っていた頃のことです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>袁譚は弟の袁尚に救援を求め、</p>
<p>袁尚は河東太守の郭援、并州刺史の高幹、</p>
<p>さらに南匈奴単于の呼廚泉らを派遣して河東方面へ進出させました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この動きは、曹操の勢力を背後から脅かすものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで曹操は、司隷校尉の鍾繇に関中の諸将を率いさせ、郭援・高幹らを迎撃させます。</p>
<p>このとき馬騰も曹操側に協力することになり、馬超と龐徳らを派遣しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>龐徳は馬超とともに平陽で郭援・高幹の軍を迎え撃ち、その戦いで軍の先鋒を務めています。</p>
<p>そして激戦の末、龐徳は敵陣へ突入し、郭援の首を自ら討ち取るという大功を挙げました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただし「魏志」龐徳伝（裴松之注『魏略』）には少し異なる話も伝えられています。</p>
<p>龐徳自身は討ち取った首が郭援のものだとは、その場では知らなかったというのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>戦闘後、郭援が戦死したことは分かったものの、その首が見つかりませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが龐徳が後になって自分の弓袋から一つの首を取り出したところ、</p>
<p>それを見た人々が郭援の首だと気づいたとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>郭援は、実は鍾繇の甥でした。そのため、鍾繇は郭援の首を見て泣きました。</p>
<p>これを知った龐徳は鍾繇に謝罪します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし鍾繇は次のように返答したといいます。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">郭援は私の甥ではある。</p>
<p>しかし国家に背いた賊である。</p>
<p>あなたが謝る必要はない。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>この逸話は、龐徳の武勇だけではなく、</p>
<p>戦場で敵を討つことと私情を切り離した鍾繇の姿勢を示す話としても非常に印象的です。</p>
<p>この戦功によって龐徳は中郎将・都亭侯に任じられました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここに至って、龐徳は馬騰軍を代表する猛将として、その名を大きく高めることになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">張白騎との戦いでも武勇を発揮</span></h4>
<p>その後、弘農で張白騎が反乱を起こすと、龐徳は再び馬騰に従って討伐に向かいました。</p>
<p>そして両殽の間で張白騎を破ります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>「魏志」龐徳伝では、このときの龐徳について、</p>
<p>「戦うたびに敵陣へ突入し、敵を退け、その勇猛さは馬騰軍の中でも群を抜いていた」</p>
<p>と評価されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは後世の創作ではなく、正史に残された龐徳そのものの評価です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>つまり龐徳は、関羽と戦った一度の奮戦だけによって「猛将」と評価された人物ではありません。</p>
<p>馬騰の配下だった時代から、実戦の中で何度も功績を積み重ねていた武将だったのです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">馬超に従って曹操と戦う</span></h4>
<p>やがて馬騰は朝廷から召され、衛尉として中央に入ることになります。</p>
<p>この際、龐徳は馬騰に従って中央へ行かず、涼州に残りました。</p>
<p>そして馬騰の軍を引き継いだ馬超に仕えることになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、馬超が曹操と対立すると、龐徳も馬超に従って曹操と戦いました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここで重要なのは、後世の物語では「馬超と龐徳」という二人の猛将が並んで描かれがちですが、</p>
<p>正史では龐徳はあくまで馬騰・馬超父子に長く仕えた実戦派の将軍として描かれているということです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操と馬超ら関中諸将との戦いが始まると、龐徳も馬超と行動をともにしました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし曹操との戦いに敗れると、龐徳は馬超とともに漢中方面へ逃れ、</p>
<p>最終的に張魯のもとへ身を寄せることになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">馬超が劉備のもとへ去った後も、龐徳は張魯に残る</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16186 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/馬超と龐徳.png" alt="" width="793" height="1184" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/馬超と龐徳.png 488w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/馬超と龐徳-201x300.png 201w" sizes="auto, (max-width: 793px) 100vw, 793px" /></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">蒼天航路（２９巻１６０P）より画像引用</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬超はその後、張魯のもとを離れて劉備のもとへ向かいますが、</p>
<p>龐徳は馬超に同行せず、張魯のもとに残りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>つまり、「馬超と最後まで行動をともにし、劉備に仕えた」という形ではありません。</p>
<p>龐徳は馬超と袂を分かち、その後も張魯の配下として漢中に残ったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして建安２０年（２１５年）、曹操が漢中へ侵攻すると張魯は降伏しました。</p>
<p>その際に龐徳も張魯とともに曹操へ降伏しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は以前から龐徳の勇猛さを聞き知っていたため、</p>
<p>龐徳を厚遇し、立義将軍・関門亭侯、食邑三百戸に任じています。</p>
<p>ここから龐徳は、かつての馬騰・馬超の配下から、正式に曹操の将軍へと転身することになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹操軍で認められた龐徳の武勇</span></h4>
<p>曹操の配下となった龐徳は、それまで馬騰・馬超のもとで培ってきた武勇を、</p>
<p>今度は魏のために発揮していくことになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして最後に龐徳の名を歴史に刻み込むことになったのが、樊城の戦いでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>建安２４年（２１９年）、関羽が荊州から北上し、樊城を守る曹仁を攻撃します。</p>
<p>曹仁は樊城を守りながら関羽の猛攻を受けることになりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで龐徳も樊城北方に配置され、関羽軍と戦うことになります。</p>
<p>この戦いで龐徳は、関羽に対して激しく抵抗しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして正史には、非常に重要な記録が残されています。</p>
<p>龐徳自身が弓を取り、関羽を射たのです。</p>
<p>正史『三国志』では、龐徳の放った矢が関羽の額に命中したと記されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>つまり、一般に知られている「龐徳が関羽に一矢を報いた」という話は、演義だけの創作ではありません。</p>
<p>関羽の額を射たという出来事自体は正史にも記録されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただし、その後に演義で描かれる「毒矢」などの設定は正史にはありません。</p>
<p>また、関羽の負傷を華佗が治療したという有名な話も、正史では記されていません。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">漢水の大洪水と龐徳の奮戦</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-5483 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/青龍.jpg" alt="" width="523" height="388" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/青龍.jpg 1600w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/青龍-300x223.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/青龍-768x570.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2021/03/青龍-1024x760.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 523px) 100vw, 523px" /></p>
<p>やがて戦況を大きく変える出来事が起こります。漢水が大規模に氾濫したのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>大雨によって水位が急激に上昇し、于禁が率いていた援軍の陣営は水没。</p>
<p>于禁率いる七軍は大きな被害を受け、最終的に于禁は関羽へ降伏しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし龐徳は最後まで戦い続けます。</p>
<p>正史に記された龐徳の姿は非常に壮烈です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>龐徳は甲冑を身につけ、弓を手にして関羽軍を攻撃しました。</p>
<p>矢が尽きると今度は短兵を取って戦い、それでも敵に屈することはありませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかも水が次第に増えていき、周囲の兵士たちが次々と降伏していく状況になっても、龐徳だけは戦いをやめませんでした。</p>
<p>やがて龐徳は小舟に乗って曹仁のいる樊城へ戻ろうとします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、水勢が激しかったため小舟が転覆し、</p>
<p>龐徳は水中に取り残され、最終的に関羽軍に捕らえられることになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">関羽の降伏勧告を拒絶</span></h4>
<p>関羽は捕らえた龐徳を見て、そのまま殺すことを惜しんだのでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで、</p>
<p>「お前の兄は漢中にいる。</p>
<p>私はお前を将軍として用いたい。なぜ早く降伏しないのか？」</p>
<p>と降伏を勧めたと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは、龐徳の従兄弟にあたる龐柔が漢中にいたことを踏まえた言葉でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし龐徳は関羽に屈しませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>むしろ関羽を激しく罵り、</p>
<p>「私は国家の鬼となることはあっても、賊の将になることはない」</p>
<p>という趣旨の言葉を返したとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして龐徳は最後まで曹操への忠節を貫き、関羽によって処刑されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここは三国志演義ではさらに劇的に描かれていますが、</p>
<p>「関羽に捕らえられ、降伏を拒み、殺された」という大筋は正史にもきちんと記録されています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">龐徳の死を知った曹操</span></h4>
<p>龐徳の死を知った曹操は、大きな衝撃を受けました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>特に、長年仕えてきた于禁が関羽に降伏した一方で、</p>
<p>比較的新しく曹操に仕えた龐徳が最後まで屈しなかったことに驚き、</p>
<p>「于禁を知って三十年になる。</p>
<p>危機に臨んで難に身を置いたとき、まさか龐徳に及ばないとは思わなかった」</p>
<p>という趣旨の言葉を残したとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は龐徳の二人の子を列侯に封じ、その忠節に報いました。</p>
<p>さらに曹丕の時代になると、龐徳には壮侯の諡号が贈られています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして魏の正始４年（２４３年）、龐徳は曹操の廟庭に従祀された人物の一人となりました。</p>
<p>これは魏において龐徳の忠節と功績が非常に高く評価されていたことを示しています。</p>
<table style="width: 100%;">
<tbody>
<tr class="odd">
<td><span style="font-size: 14pt;">〈</span><span style="font-size: 14pt;">曹操廟に祀られた二十六人の功臣〉</span>-青龍元年（２３３年） 曹叡の治世《合計三名》-<br />
夏侯惇・曹仁・程昱-正始四年（２４３年） 曹芳の治世《合計二十名》-<br />
曹真・曹休・夏侯尚・桓階・陳羣・鍾繇・張郃・徐晃・張遼・楽進・華歆<br />
・王朗・曹洪・夏侯淵・朱霊・文聘・臧覇・李典・龐徳・典韋-正始五年（２４４年） 曹芳の治世《合計一名》-<br />
荀攸</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-嘉平三年（２５１年） 曹芳の治世《合計一名》-<br />
司馬懿</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>-景元三年（２６２年） 曹奐の治世《合計一名》-<br />
郭嘉</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h4><span style="font-size: 18pt;">龐徳 -「猛将」であると同時に「忠将」だった-</span></h4>
<p>龐徳という人物を正史から見ていくと、</p>
<p>単純に「関羽と戦って死んだ猛将」とだけ評価するのは少しもったいないでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>若い頃から涼州の戦乱に身を置き、馬騰に従って羌族・氐族を討ち、何度も戦功を挙げました。</p>
<p>その後、馬騰・馬超父子に従って郭援・高幹らと戦い、郭援を討ち取る大功を挙げます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに張白騎との戦いでも、</p>
<p>「毎戦、常に陣に陥りて敵を退け、勇は馬騰軍に冠たり」</p>
<p>と評されるほどの勇猛さを示しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして馬超とともに曹操と戦い、</p>
<p>敗れて張魯のもとへ移った後は、今度は曹操に仕えます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここが龐徳の人生の面白いところです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬騰の旧臣であり、馬超の旧臣でもあった龐徳は、</p>
<p>最終的にはその馬超と敵対する可能性のある曹操に仕えることになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それでも曹操の配下となった後は、魏の将軍として忠実に戦いました。</p>
<p>そして最期には、かつての主君・馬超の一族が劉備のもとにいるにもかかわらず、関羽からの降伏勧告を拒絶しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>つまり龐徳にとって最後に守ったものは、</p>
<p>「かつて誰に仕えていたか」ではなく、</p>
<p>「現在、自分が仕えている君主への忠節」だったとも考えられます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして何より印象的なのは、</p>
<p>樊城で味方の兵士が次々と降伏していく中でも、龐徳だけは最後まで戦い続けたことです。</p>
<p>弓を射、矢が尽きれば刀を取り、水に飲み込まれてもなお生き延びようとし、捕らえられた後も降伏を拒みました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その最期は、まさに「戦場で生き、戦場で死んだ武将」と呼ぶにふさわしいものでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>三国志演義によって関羽と龐徳の戦いは大きく脚色されていますが、</p>
<p>正史だけを見ても、龐徳が相当な勇将であり、最後までその節を曲げなかった人物であったことは間違いありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>龐徳の生涯は、華々しい天下統一の物語というよりも、</p>
<p>涼州の戦乱の中で武名を高め、主君を何度も変えることになりながらも、</p>
<p>最後に仕えた曹操への忠義を命がけで貫いた一人の武人の生涯だったのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>なお後日談ではありますが、龐徳の息子である龐会について、</p>
<p>「蜀志」関羽伝（裴松之注「蜀記」）に「蜀滅亡後に関羽の一族を皆殺しにした」という話が書かれてありますが、</p>
<p>裴松之もその記述に対して疑義を呈しているため、正史基準の記事では事実として断定しない方が適切です。</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>馬騰 -涼州に生き、乱世を駆け抜けた武人-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2020/11/18/%e9%a6%ac%e9%a8%b0-%e6%b6%bc%e5%b7%9e%e3%81%ab%e7%94%9f%e3%81%8d%e3%80%81%e4%b9%b1%e4%b8%96%e3%82%92%e9%a7%86%e3%81%91%e6%8a%9c%e3%81%91%e3%81%9f%e6%ad%a6%e4%ba%ba/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 17 Nov 2020 16:34:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[馬騰]]></category>
		<category><![CDATA[鄴]]></category>
		<category><![CDATA[木材]]></category>
		<category><![CDATA[八尺]]></category>
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		<category><![CDATA[樊稠]]></category>
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					<description><![CDATA[馬騰（ばとう、字：寿成） 馬騰（ばとう、字は寿成）は、司隸扶風郡茂陵県の人です。 その家系は、後漢の名将として知られる馬援の子孫と伝えられています。 &#160; 馬騰の父である馬平は、羌族の女性との間に馬騰をもうけたと [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">馬騰（ばとう、字：寿成）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16173 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/馬騰.png" alt="" width="801" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/馬騰.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/馬騰-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/馬騰-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/馬騰-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/馬騰-1536x864.png 1536w" sizes="auto, (max-width: 801px) 100vw, 801px" /></p>
<p>馬騰（ばとう、字は寿成）は、司隸扶風郡茂陵県の人です。</p>
<p>その家系は、後漢の名将として知られる馬援の子孫と伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬騰の父である馬平は、羌族の女性との間に馬騰をもうけたとされており、</p>
<p>馬騰自身も漢族と羌族の双方に縁を持つ人物でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、若い頃の馬騰は決して裕福な家に育ったわけではありません。</p>
<p>家業にも恵まれず、生活は貧しかったといいます。</p>
<p>そのため、彰山で材木を伐り、それを背負って町へ運び、売り歩くことで生計を立てていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな馬騰でしたが、非常に大柄な体格の持ち主でした。</p>
<p>身の丈は八尺余り（約１８５cm）もあり、身体は大きく、顔立ちも雄々しかったと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一方で、その外見から想像されるような粗暴な人物ではありませんでした。</p>
<p>性格は賢明で温厚であり、人々からも自然と敬意を集める人物だったといいます。</p>
<p>この「大きな身体と威厳ある風貌、そして温厚な人柄」という特徴は、後に涼州で多くの人々を従えるようになる馬騰の大きな魅力になったのでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">涼州で起こった大規模な反乱</span></h4>
<p>馬騰が歴史の表舞台へ登場するきっかけとなったのが、</p>
<p>後漢末期の涼州で起こった大規模な反乱でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>中平元年（１８４年）冬、</p>
<p>北地郡の先零羌をはじめ、枹罕・河関の勢力などが相次いで反乱を起こします。</p>
<p>さらに北宮伯玉、李文侯、王国、辺章、韓遂らもこれに加わり、涼州一帯は大きな混乱に陥りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>当時の涼州刺史・<ruby>耿鄙<rt>こうひ</rt></ruby>は、反乱を鎮圧するため、民間から武勇に優れた者を募って軍勢を編成します。</p>
<p>この時、その募集に応じた人物の一人が馬騰でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>州郡の官吏たちは、馬騰の並外れた体格と能力を見抜き、彼を軍従事に任じて部隊を統率させます。</p>
<p>馬騰は実戦で功績を挙げ、やがて軍司馬にまで昇進しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>貧しい材木売りだった青年は、こうして戦乱の中で武人として頭角を現していったのです。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">王国・韓遂らとともに涼州で勢力を拡大</span></h3>
<p>ところが中平４年（１８７年）、耿鄙と韓遂が争う中で、</p>
<p>涼州刺史の耿鄙が部下の裏切りによって殺害されると、涼州の情勢はさらに悪化します。</p>
<p>馬騰は自らの軍勢を率いて韓遂らの勢力に合流しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>反乱勢力は王国を盟主として擁立し、三輔地方へ進出して各地を荒らします。</p>
<p>中平５年（１８８年）には、王国・韓遂らが陳倉城を包囲しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし翌年、皇甫嵩が率いる漢軍によって撃破され、包囲軍は大きな打撃を受けます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この混乱の中で王国も命を落とし、</p>
<p>その後は反乱軍の内部で主導権をめぐる争いが始まりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>涼州の諸将は互いに勢力を争い、やがて一つにまとまっていた軍勢も次第に分裂していきます。</p>
<p>このような状況の中で、馬騰もまた一人の有力な軍閥として独自の勢力を築いていくことになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">董卓の台頭と馬騰の軍事的地位</span></h4>
<p>後漢の中央政権が混乱を極める一方、</p>
<p>董卓が朝廷の実権を握るようになると、天下はさらに大きく揺れ動きます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>初平元年（１９０年）、董卓に反発する諸侯が関東で挙兵すると、各地で戦乱が繰り広げられました。</p>
<p>この頃、馬騰は龐徳らを率いて羌族・氐族の反乱を討伐していたとされます。</p>
<p>こうした軍事的功績もあって、馬騰は偏将軍に任じられました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>もともとは涼州の一軍人にすぎなかった馬騰でしたが、</p>
<p>度重なる戦乱を生き抜く中で、次第に朝廷からも無視できない存在へと成長していったのです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">長安へ進出し、李傕と対立</span></h4>
<p>董卓が王允らによって殺害された後も、長安の政局が安定することはありませんでした。</p>
<p>董卓の旧臣である李傕・郭汜らが長安を制圧し、朝廷を思うままに動かすようになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>初平３年（１９２年）、馬騰と韓遂らは軍勢を率いて長安へ進出しました。</p>
<p>馬騰は征西将軍などの官職を与えられ、郿に駐屯したとされます。</p>
<p>一方、韓遂も鎮西将軍に任じられ、涼州へ戻るよう命じられました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、馬騰はやがて李傕と対立することになります。</p>
<p>興平元年（１９４年）には、馬騰は一度入朝した後、霸橋付近に駐屯しました。</p>
<p>李傕と個人的な関係を結ぼうとしたものの、思うようにいかなかったことから両者の関係は悪化します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで馬騰は、益州牧の劉焉とも連携し、李傕を打倒する動きを見せました。</p>
<p>この計画には、侍中の馬宇、劉範、种劭、杜稟らも加わります。</p>
<p>馬騰は食糧を確保する必要があるとして池陽方面への移動を上奏し、長平岸頭へ軍を移しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、李傕側も黙ってこれを見過ごしてはいませんでした。</p>
<p>李傕は郭汜・樊稠・李利らを派遣し、馬騰軍と戦わせます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>こうして両軍は激しく衝突することになりました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">長安での敗北と韓遂との関係</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-16175 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦①.png" alt="" width="801" height="450" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦①.png 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦①-300x169.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦①-1024x576.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦①-768x432.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/戦①-1536x864.png 1536w" sizes="auto, (max-width: 801px) 100vw, 801px" /></p>
<p>馬騰は何日にもわたって李傕軍と戦いましたが、決着をつけることができませんでした。</p>
<p>この情勢を見た韓遂は、両者を和解させようとして軍勢を率いてきます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、結局は馬騰側に加わる形となり、戦いはさらに激しくなりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ところが、馬騰軍が出陣している隙を突かれ、</p>
<p>長平方面の守備兵から攻撃を受けたことで、馬騰軍は大きく崩れます。</p>
<p>劉範や种劭らも戦死し、馬騰側は多数の犠牲者を出す大敗を喫しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>それでも韓遂は、樊稠と同郷だったことなどから、何とか戦場を脱出することができたと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>敗北した馬騰と韓遂は涼州へ戻りました。</p>
<p>二人はその後、義兄弟の契りを結ぶほどの関係となります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、乱世の軍閥同士の関係は長く安定しませんでした。</p>
<p>やがて両者は再び対立し、互いに軍を率いて争うようになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>韓遂は一度馬騰に敗れて逃走しますが、その後軍勢を立て直して反撃し、</p>
<p>馬騰の妻子を殺害するまでに両者の対立は激化しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この頃には、馬騰の息子である馬超も武人として成長しており、</p>
<p>韓遂配下の閻行と一騎打ちをしたという逸話も伝えられています。</p>
<p>こうして馬騰と韓遂の対立は、単なる軍閥同士の争いではなく、家族をも巻き込む深刻な抗争へと発展していきました。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">鍾繇の説得＆再び結ばれた韓遂との和解</span></h4>
<p>一方、曹操は中原で勢力を拡大していました。</p>
<p>曹操にとっても、関中・涼州で馬騰や韓遂らが争い続けることは大きな脅威でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで曹操は鍾繇を司隷校尉に任じ、関中の諸勢力をまとめる役割を与えます。</p>
<p>鍾繇は長安へ赴くと、馬騰や韓遂に書簡を送り、天下の情勢と互いの利害を説きました。</p>
<p>さらに両者に子弟を人質として差し出させることで、両勢力の関係を安定させようとします。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>鍾繇や涼州牧・韋端らの仲介もあり、馬騰と韓遂は再び和解することになりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、馬騰は槐里に駐屯するようになります。</p>
<p>そして前将軍・仮節・槐里侯などの地位を与えられ、胡族や張白騎らの侵入に備える一方、</p>
<p>士人を厚遇し、賢者を推挙するなど、単なる軍事指導者にとどまらない統治者としての一面も見せました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>民衆にも配慮したため、三輔地方の人々から非常に慕われたと伝えられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>かつて材木を売って暮らしていた馬騰は、</p>
<p>こうして関中における有力な軍事・政治勢力の一人となっていたのです。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">馬超・龐徳が鍾繇を支援する</span></h4>
<p>建安７年（２０２年）、袁紹の死後、</p>
<p>その子である袁譚・袁尚らが高幹や郭援らを動かし、河東方面へ侵攻させました。</p>
<p>この時、馬騰と韓遂は当初、郭援らと通じていたとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし鍾繇は張既を派遣して馬騰を説得し、さらに傅幹らも説得にあたりました。</p>
<p>その結果、馬騰は態度を改め、息子の馬超や龐徳らに兵を率いさせて鍾繇を支援します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この援軍によって鍾繇らは郭援の軍を破ることに成功しました。</p>
<p>その後、馬騰は征南将軍、韓遂は征西将軍に任じられ、両者にはそれぞれ幕府を開くことも認められました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬騰はその後も張白騎・張琰・衛固らの討伐に参加するなど、</p>
<p>曹操政権にとっても重要な軍事力として利用される存在になっていきます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">関中から鄴へ</span></h4>
<p>しかし、曹操が中国北部をほぼ制圧していくにつれて、</p>
<p>関中に独立した軍事勢力が存在することは、曹操にとって次第に大きな問題となっていきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>建安１３年（２０８年）、</p>
<p>曹操が荊州へ進軍しようとした際、関中に馬騰らの軍勢が存在することを警戒します。</p>
<p>そこで張既を派遣し、馬騰に軍勢を解散して中央へ帰還するよう説得させました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬騰はこれを承諾したものの、なかなか実際の行動には移しませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そこで張既は、馬騰が途中で翻意することを恐れ、</p>
<p>諸県に命じて食糧を準備させ、さらに太守たちを郊外まで出迎えに向かわせます。</p>
<p>こうして馬騰は、もはや帰還を拒むことが難しい状況となり、長年率いてきた軍勢を離れて中央へ向かうことになりました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>朝廷から衛尉に任じられ、馬騰本人とその家族は鄴へ移住します。</p>
<p>弟の馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉に任じられました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、馬騰の長男である馬超だけは関中に残されました。</p>
<p>馬超には、父が率いていた軍勢を引き継いで管理する役割が与えられたのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここから、馬騰と馬超の運命は大きく分かれていくことになります。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">馬超の反乱、そして馬騰の最期</span></h4>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-8661 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花.png" alt="" width="430" height="430" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花.png 1417w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花-150x150.png 150w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花-300x300.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花-768x768.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花-1024x1024.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花-320x320.png 320w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花-200x200.png 200w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/09/赤い花-100x100.png 100w" sizes="auto, (max-width: 430px) 100vw, 430px" /></p>
<p>建安１６年（２１１年）、曹操が関中への進出を進めると、馬超は韓遂、楊秋、李堪、成宜らと結び、曹操に対して反乱を起こしました。</p>
<p>いわゆる潼関の戦いへとつながる関中諸将の反乱です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬超と韓遂らは一時、曹操を大いに苦しめました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし最終的には曹操の巧みな離間策などによって関中の連合軍は瓦解し、</p>
<p>馬超は敗れて涼州方面へ逃れることになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして、馬超が反乱を起こしたことによって、鄴にいた馬騰にも重大な運命が待ち受けていました。</p>
<p>建安１７年（２１２年）五月、馬騰は一族とともに処刑されます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬超が曹操に反旗を翻したことに対する報復でした。</p>
<p>こうして、かつて涼州の戦乱を生き抜き、関中で大きな勢力を築いた馬騰の生涯は幕を閉じます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">馬騰という人物</span></h4>
<p>馬騰の人生を振り返ると、非常に波乱に満ちた生涯だったことが分かります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>貧しい材木売りから身を起こし、</p>
<p>涼州の反乱軍に加わったことをきっかけに武人として頭角を現しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後、韓遂らとともに涼州・関中で勢力を拡大し、董卓、李傕らの勢力とも対立します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>さらに曹操の勢力が拡大すると、鍾繇らの仲介によって曹操政権との関係を築き、</p>
<p>最終的には中央へ召還され、衛尉という高位の官職にまで上りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一方で、馬騰が中央へ移った後も、息子の馬超は関中に残りました。</p>
<p>そして、その馬超が曹操と対立したことによって、馬騰自身も一族とともに命を奪われることになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬騰は、単純に「善人」あるいは「悪人」と評価できる人物ではありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>後漢末期という、中央政府の統制が弱まり、</p>
<p>地方の武人たちが自らの勢力を守らなければ生き残れない時代を生きた人物です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">時には反乱勢力に加わり、時には朝廷から官職を受け、また時には曹操と協力する。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>その時々の情勢を見ながら生き残りを図った姿は、まさに後漢末期の群雄の一人だったと言えるでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして何より皮肉なのは、</p>
<p>馬騰自身が最終的には曹操の政権に取り込まれ、中央で高い地位を得たにもかかわらず、</p>
<p>息子の馬超が曹操と戦うことによって、その人生の結末を迎えることになった点です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>馬騰の死後も、馬超はなお曹操への抵抗を続け、</p>
<p>やがて張魯を頼り、さらに劉備のもとへ身を寄せることになります。</p>
<p>こうして馬騰の家系は、後漢末期から三国時代へと続く激動の歴史の中で、なお重要な役割を担っていくことになるのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3>馬騰の反乱</h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class="wp-image-4914 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/—Pngtree—cavalry-war-silhouette_5418656.png" alt="" width="757" height="435" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/—Pngtree—cavalry-war-silhouette_5418656.png 4528w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/—Pngtree—cavalry-war-silhouette_5418656-300x172.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/—Pngtree—cavalry-war-silhouette_5418656-768x441.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/11/—Pngtree—cavalry-war-silhouette_5418656-1024x588.png 1024w" sizes="auto, (max-width: 757px) 100vw, 757px" /></p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>韓遂 -涼州での反乱に生涯を捧げた反逆者-</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2019/11/24/%e9%9f%93%e9%81%82-%e6%b6%bc%e5%b7%9e%e3%81%a7%e3%81%ae%e5%8f%8d%e4%b9%b1%e3%81%ab%e7%94%9f%e6%b6%af%e3%82%92%e6%8d%a7%e3%81%92%e3%81%9f%e5%8f%8d%e9%80%86%e8%80%85/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 24 Nov 2019 14:03:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[韓遂]]></category>
		<category><![CDATA[先零羌]]></category>
		<category><![CDATA[郿県]]></category>
		<category><![CDATA[手下八部]]></category>
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					<description><![CDATA[ 韓遂（韓約/文約） 韓遂かんすいについてのことは個人伝が立てられておらず、 陳寿の著した「三国志（正史）」の「魏志」武帝紀や「蜀志」馬超伝であったり、 他には「後漢書」などに記載が残されています。 &#160; 韓遂が [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;"> 韓遂（韓約/文約）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-15819 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂-6a3a660c86e49.jpg" alt="" width="764" height="430" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂-6a3a660c86e49.jpg 1672w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂-6a3a660c86e49-300x169.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂-6a3a660c86e49-1024x576.jpg 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂-6a3a660c86e49-768x432.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂-6a3a660c86e49-1536x864.jpg 1536w" sizes="auto, (max-width: 764px) 100vw, 764px" /></p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><ruby>韓遂<rt>かんすい</rt></ruby></span>についてのことは個人伝が立てられておらず、</p>
<p>陳寿の著した「三国志（正史）」の「魏志」武帝紀や「蜀志」馬超伝であったり、</p>
<p>他には「後漢書」などに記載が残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>韓遂が登場するのは霊帝の治世の際であり、<span style="font-size: 18pt;"><span style="font-size: 12pt;">涼州金城郡の出身</span></span>で、両親の名は現在に伝わっていません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>またもともとの名は<span style="font-size: 12pt;">韓約（後の韓遂）</span>であり、</p>
<p>他にも曹操のもとに人質として送った息子と、配下である閻行に嫁いだ娘がいた事は分かっていますが、どちらも名前は分かっていません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>韓遂は同郡出身の<span style="font-size: 12pt;">辺允（後の辺章）</span>と共に高く評価されていたようでして、</p>
<p>ある時に韓遂が洛陽へと赴いた際に、大将軍の何進に目をかけられた逸話も残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時に韓遂は何進に対して次のような助言を残しています。</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「宦官を取り除くべきである」</span>と・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただ何進が韓遂の進言を取りあげることはなく、愛想をつかした韓遂は涼州へと戻っていますが、</p>
<p>後に何進は宦官らの罠にはまる形で命を落としています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">&#8211;</span><span style="font-size: 18pt;">涼州反乱（第一章）</span><span style="font-size: 18pt;">&#8211;</span></h4>
<p><span style="font-size: 12pt;">そんな折ですが、中平元年（光和七年/１８４年）に、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><ruby>涼州北地郡</ruby>の<ruby>先零羌<rt>せんれいきょう</rt></ruby>（<ruby>羌族</ruby>の一部族）らと共に、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">宋建・王国・<ruby>北宮伯玉<rt>ほっきょくはくぎょく</rt></ruby>（北宮玉）・<ruby>李文侯<rt>りぶんこう</rt></ruby>らが涼州で反乱を起こすと、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">金城郡を攻撃して、</span><span style="font-size: 12pt;">名士として知られた韓約・辺允を捕縛してしまいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">またそればかりか、宋建・王国・<ruby>北宮伯玉</ruby>・<ruby>李文侯らは、</ruby></span><span style="font-size: 12pt;"><ruby>伶徴<rt>れいちょう</rt></ruby>（護羌校尉）や陳懿（金城太守）を殺害しました。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">その後に反乱軍は韓約・辺允を釈放し、反乱軍の指揮を任せることにしたのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">なんか不思議とも思える流れですよね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">流されるままに賊徒となってしまった韓約・辺允ですが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">このタイミングに韓約から韓遂に、辺允から辺章に名を改めたといいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">中平二年（１８５年）に、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">辺章・韓遂らが長安周辺である<ruby>三輔<rt>さんぽ</rt></ruby>地方（<ruby>右扶風<rt>ゆうふふう</rt></ruby>・<ruby>左馮翊<rt>さひょうよく</rt></ruby>・<ruby>京兆尹<rt>けいちょういん</rt></ruby>の三郡）に侵入すると、</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">この反乱を鎮圧すべく皇甫嵩・董卓が討伐軍として送られてきます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただ皇甫嵩や董卓はこれといった成果も上げられず、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">以前に張譲への賄賂を拒んでいた事などを理由に皇甫嵩は罷免させられ、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">代わりに張温が送られてくることとなります。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただ張温・董卓らも辺章・韓遂らの前に普通に劣勢に立たされるものの、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ふと流星が流れた際に、辺章・韓遂らの陣営を明るく照らした事がありました。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">辺章・韓遂らはこれを大層不吉に思い、金城郡へ撤退していますね。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">これを好機と見た董卓は、辺章・韓遂らを追撃して数千人を討ち取ったといいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そして涼州の反乱はくすぶり続け、根本を解決しないまま、</span><span style="font-size: 12pt;">張温は洛陽へと召し返されることとなったのでした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">どういった理由で殺害したのかは不明ですが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂はこれまで共に行動してきた辺章・<ruby>北宮伯玉</ruby>・<ruby>李文侯を殺害し、軍勢を吸収していますね。</ruby></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">またこれ以降、韓遂は生涯に渡って反乱の中に身を捧げていく事となります。</span></p>
<h4><span style="font-size: 18pt;"> -涼州反乱（第二章）- 王国・韓遂・馬騰の反乱</span></h4>
<p><span style="font-size: 12pt;"><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-12095 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/騎馬-.png" alt="" width="770" height="558" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/騎馬-.png 508w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/騎馬--300x217.png 300w" sizes="auto, (max-width: 770px) 100vw, 770px" /></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">中平四年（１８７年）に、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><ruby>耿鄙<rt>こうひ</rt></ruby>（涼州刺史）が信任した<ruby>治中従事史</ruby>である<ruby>程球<rt>ていきゅう</rt></ruby>が不正を働いた事で、</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">再びこれに怒りを覚えた羌族が反乱を起こします。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そして韓遂もまたこれに乗じて反乱を起こし、十万人を率いて隴西郡へと兵を進めていますが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">王国もまた「<span style="font-family: georgia, palatino, serif;">合衆将軍」を称して韓遂に合流しています。</span></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><ruby>その結果、隴西太守の</ruby><ruby>李相如は戦わずして降伏していますね。</ruby></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><ruby>耿鄙は反乱鎮圧の為に屈強なものを募集したわけですが、</ruby></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">その中に馬騰がおり、風貌が大層に優れており、<ruby>耿鄙は即座に馬騰を気に入ったといいます。</ruby></span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><ruby>耿鄙は馬騰を</ruby>軍司馬に任じて兵を率いさせ、<ruby>耿鄙自身も</ruby>反乱討伐へと向かいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">しかし裏切者が出た事によって耿鄙・<ruby>程球</ruby>は殺害され、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂らは漢陽郡冀県を陥落させることに成功しています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">その後間もなくして、馬騰は韓遂らの反乱軍へと寝返っているのは余談です。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そして中平五年（１８８年）に、王国は</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">王国を盟主に韓遂・馬騰が再び<ruby>三輔</ruby>地方へと侵入すると、</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">再び討伐を任されたのは皇甫嵩・董卓の二人であり、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">それぞれに二万人ずつ兵を与えられていますね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">この戦いは皇甫嵩と董卓の意見が対立した戦いでもありますが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">皇甫嵩は自分自身の考えを信じて戦った結果、王国・韓遂・馬騰らは敗北したのでした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">この時に韓遂と馬騰は王国を大将から追放したのですが、その混乱の中で王国は殺害さていますね。</span></p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">-涼州反乱（第三章）- 長安奪取計画</span></h4>
<p><span style="font-size: 12pt;"><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-4706 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/10/風景画.png" alt="" width="768" height="419" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/10/風景画.png 1012w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/10/風景画-300x164.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2020/10/風景画-768x419.png 768w" sizes="auto, (max-width: 768px) 100vw, 768px" /></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">董卓と反董卓連合との争いが起こると、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">その中で董卓は洛陽を焼き払って長安へと遷都を行っています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">しかし王允と呂布が手を結んで董卓を殺害すると、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">董卓配下であった李傕・郭汜らの逆襲によって、王允・呂布らは敗れています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">王允は処刑され、呂布は落ち延びてますね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そして初平三年（１９２年）、韓遂・馬騰は長安へと赴き、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">李傕・郭汜に恭順の意図を示した事で、</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂は鎮西将軍に、馬騰は征西将軍に任じられています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ちなみにこれにより韓遂は涼州へと帰還し、馬騰は郿県に駐屯していますね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただ興平元年（１９４年）になると、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">馬騰が劉焉と手を組んで長安奪取計画を画策します。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">これを伝え聞いた韓遂は、馬騰と李傕・郭汜らが争う事を止めようと動きますが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">結果的に韓遂も馬騰に同調してしまいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただこの計画は情報が既に漏洩していたこともあり、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">長平観にて郭汜・樊稠・李利と交戦するも大敗してしまいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">これにより大打撃を受けたのは劉焉であり、</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">大事な跡継ぎになったであろう長男の劉範は討ち取られ、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">次男の劉誕もまた捕らえられて処刑されています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">このことに大変なショックを受けた劉焉は体調を崩し、この年に亡くなってしまったのは余談です。</span></p>
<blockquote class="wp-embedded-content" data-secret="utfJ9iRZ2P"><p><a href="https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/10/%e7%9b%8a%e5%b7%9e%e3%81%a7%e7%8b%ac%e7%ab%8b%e5%9b%bd%e3%82%92%e5%a4%a2%e8%a6%8b%e3%81%9f%e5%8a%89%e7%84%89/">益州で独立国を夢見た劉焉</a></p></blockquote>
<p><iframe loading="lazy" class="wp-embedded-content" sandbox="allow-scripts" security="restricted"  title="&#8220;益州で独立国を夢見た劉焉&#8221; &#8212; なんでも三国志" src="https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/10/%e7%9b%8a%e5%b7%9e%e3%81%a7%e7%8b%ac%e7%ab%8b%e5%9b%bd%e3%82%92%e5%a4%a2%e8%a6%8b%e3%81%9f%e5%8a%89%e7%84%89/embed/#?secret=N1MCfYtYEb#?secret=utfJ9iRZ2P" data-secret="utfJ9iRZ2P" width="500" height="282" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">血を血で洗う争い（韓遂＆馬騰）</span></h4>
<p><span style="font-size: 12pt;">長安奪取に失敗した韓遂・馬騰でしたが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">長らく共に歩んできたことで友情関係が芽生えたようで、<span style="color: #000000;">義兄弟の契り</span>を結んだといいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">しかし二人の関係は涼州をめぐる問題の中で一気にこじれ、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">修復が不可能と思われるレベルにまで争うようになっていったのでした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">何故ならばこの双方の争いの中で、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂は馬騰の妻子を殺害したりもしているからですね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">完全に血を血で洗う争いだったわけです。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">最終的に二人の間を取り持ったのは曹操であり、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">鍾繇に命じて二人の仲介を命じた事で、争いは終止符を打たれる事となったのでした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">しかし涼州で地盤を持つ馬騰・韓遂の存在を危険視した曹操は、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">馬騰に入朝するように命じた事で、馬騰は一族を率いて鄴へと移住しています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">また韓遂も息子を人質として差し出していますね。</span></p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">-涼州反乱（第四章）- 潼関の戦い（韓遂・馬超VS曹操）</span></h4>
<p><span style="font-size: 12pt;">建安十六年（２１１年）に入ると、曹操は鍾繇の進言を取り入れ、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">張魯討伐を掲げながらも、涼州軍閥を圧迫するように仕向けていきます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">この曹操の動きに韓遂ら涼州の豪族らは、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「自分達が攻められるのではないか！？」と不安に陥ります。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そして涼州に残って父親である馬騰の兵を引き継いでいた馬超であったり、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">楊秋・侯選・張横・程銀・成宜・李堪・馬玩・梁興らが韓遂と手を組む形で決起へとつながります。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">潼関にて対峙した両軍ですが、曹操も苦戦を強いられてしまいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">特に曹操が渡河の途中で馬超によって襲われた際は、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">後一歩で命を落とす所ほどの危機に見舞われたといいます。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">許褚と虎士（精鋭歩兵部隊）の活躍によりなんとか命拾いするわけですけどね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">しかし最終的に賈詡による離間の計にはまってしまい、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂と馬超が仲違いしたことで、そこを曹操につかれて曹操の勝利で幕を下ろしたのでした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">これ以降も恭順する素振りがなかったことにより、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">馬騰の一族は処刑され、韓遂の息子もまた処刑されていますね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">反乱を起こした者達のその後は次のような感じですね。</span></p>
<ul>
<li class="odd"><span style="font-size: 12pt;">馬超→最終的に妻子（閻圃妻になり、息子は処刑）・部下を捨て劉備の元へ。</span></li>
<li class="even"><span style="font-size: 12pt;">韓遂→四年後に部下に殺害される（病死説もあり）。</span></li>
<li class="odd"><span style="font-size: 12pt;">楊秋→降伏後は、討寇将軍・位特進（三公に継ぐ程の名誉職）を経て臨涇侯に…</span></li>
<li class="even"><span style="font-size: 12pt;">成宜・李堪→潼関討死。</span></li>
<li class="odd"><span style="font-size: 12pt;">梁興→翌年討死。</span></li>
<li class="even"><span style="font-size: 12pt;">侯選・程銀→後に降伏。</span></li>
<li class="odd"><span style="font-size: 12pt;">張横・馬玩→不明。</span></li>
</ul>
<blockquote class="wp-embedded-content" data-secret="ghQnbi3RQd"><p><a href="https://daisuki-sangokushi.com/2020/11/14/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%ae%e4%bf%a1%e5%bf%b5%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%a8%e3%81%ab%e4%b9%b1%e4%b8%96%e3%82%92%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%8a%9c%e3%81%84%e3%81%9f%e9%a6%ac%e8%b6%85/">良くも悪くも自分の信念のもとに乱世を生き抜いた馬超</a></p></blockquote>
<p><iframe loading="lazy" class="wp-embedded-content" sandbox="allow-scripts" security="restricted"  title="&#8220;良くも悪くも自分の信念のもとに乱世を生き抜いた馬超&#8221; &#8212; なんでも三国志" src="https://daisuki-sangokushi.com/2020/11/14/%e8%87%aa%e5%88%86%e3%81%ae%e4%bf%a1%e5%bf%b5%e3%81%ae%e3%82%82%e3%81%a8%e3%81%ab%e4%b9%b1%e4%b8%96%e3%82%92%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%8a%9c%e3%81%84%e3%81%9f%e9%a6%ac%e8%b6%85/embed/#?secret=kb5AJxhi6t#?secret=ghQnbi3RQd" data-secret="ghQnbi3RQd" width="500" height="282" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">-涼州で反乱（最終章）- </span></h4>
<p><span style="font-size: 12pt;">馬超や韓遂はその後も曹操と争いを続けていくわけですが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">曹操は涼州討伐を成し遂げるべく、夏侯淵に討伐命令を出しています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">氐族と組んで再起を図ろうとした馬超は夏侯淵に敗れ、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">一方の韓遂もまた<ruby>閻行<rt>えんこう</rt></ruby>の裏切りもあったりで夏侯淵に敗れてしまうのでした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">余談ですが、かつて韓遂と共に反乱を起こした宋建も、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">長らく勢力を維持していましたが、夏侯淵によって討ち滅ぼされていますね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ここにいたって韓遂は、益州の劉備のもとへと落ち延びていくか検討しますが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂が厚く信頼を置いていた成公英の反対にあったことで取りやめています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">成公英の考えとしては、羌族のもとにて再び力を蓄える事が大事だというもので、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂は成公英と共に羌族を頼って落ち延びた形になります。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">その翌年の建安二十年（２１５年）、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">羌族から数万の軍勢を借りる事に成功した韓遂は、</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">かつての部下でもあった閻行に対して攻撃をしかけますが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">部下であった麹演・蒋石の裏切りによって韓遂は討たれてしまうのでした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">最後まで韓遂に付き従っていた成公英でしたが、ここにいたって曹操に降っています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">反乱に生涯を捧げた韓遂の人生でしたが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">最期は部下の裏切りにより幕を下ろしたとは因果ですね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただ「韓遂が病死した」という説も存在しているのは余談ではあります。</span></p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">『三国志演義』の韓遂</span></h3>
<p><span style="font-size: 12pt;"><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-12096 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂＆馬超.png" alt="" width="761" height="1117" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂＆馬超.png 615w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/11/韓遂＆馬超-204x300.png 204w" sizes="auto, (max-width: 761px) 100vw, 761px" /></span></p>
<p><span style="font-size: 10pt;">横山光輝三国志（３１巻３６P）より画像引用</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂は馬騰と義兄弟の契りを結んでおり、董卓残党軍（李傕・郭汜ら）と戦うも敗れています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">馬騰が曹操の罠にはまって殺害されてしまいますが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">馬騰の息子である馬超と共に曹操に対して兵を挙げたのでした。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">この際に韓遂には「手下八部」と呼ばれる部下がいました。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「三国志（正史）」でも韓遂・馬超らと共に反乱を起こした者達ですが、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「三国志演義」では韓遂の配下として登場しているわけです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">※手下八部（楊秋・馬玩・梁興・程銀・成宜・李堪・侯選・張横）</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">韓遂・馬超らの勢いはすさまじく、長安を落とす事に成功するも、</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">最終的に賈詡の離間の計により、韓遂と馬超の足並みが乱れたことで</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">正史同様にそこをつかれた形で破れてしまいますね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ちなみに馬超は韓遂と曹操の内通を疑い、その経過の中で左腕を斬り落とされています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">曹操に降伏してからの韓遂は関内侯に封じられ、夏侯淵と共に関中に留まる流れとなっています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そしてこれを最後に、韓遂はその後は登場していません。</span></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>曹操を最前線で支え続けた曹仁（曹仁なくして曹操なし）</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/28/%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%82%92%e6%94%af%e3%81%88%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%81%9f%e6%9b%b9%e4%bb%81%ef%bc%88%e6%9b%b9%e4%bb%81%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%97%e3%81%a6%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%81%aa%e3%81%97%ef%bc%89/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 27 Oct 2019 18:28:50 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[曹仁]]></category>
		<category><![CDATA[三千人]]></category>
		<category><![CDATA[関羽]]></category>
		<category><![CDATA[数十騎]]></category>
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		<category><![CDATA[曹褒]]></category>
		<category><![CDATA[曹操の廟庭]]></category>
		<category><![CDATA[荊州]]></category>
		<category><![CDATA[天上人]]></category>
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		<category><![CDATA[曹熾]]></category>
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		<category><![CDATA[曹操]]></category>
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		<category><![CDATA[牛金]]></category>
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					<description><![CDATA[曹操と共に歩む道を選んだ曹仁 曹仁そうじんは建寧元年（１６８年）に、 曹操の祖父にあたる曹褒（曹騰の兄）の孫として誕生しています。 &#160; ここでは深くは触れませんが、宦官である事で知られる曹騰ですが、 四人兄弟の [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">曹操と共に歩む道を選んだ曹仁</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-15380 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①.png" alt="" width="746" height="498" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①.png 1536w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①-300x200.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①-1024x683.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/曹仁①-768x512.png 768w" sizes="auto, (max-width: 746px) 100vw, 746px" /></p>
<p><span style="font-size: 12pt;"><ruby>曹仁<rt>そうじん</rt></ruby></span>は建寧元年（１６８年）に、</p>
<p>曹操の祖父にあたる<span style="font-size: 12pt;">曹褒（曹騰の兄）の孫</span>として誕生しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ここでは深くは触れませんが、宦官である事で知られる曹騰ですが、</p>
<p>四人兄弟の末子であり、三人の兄がいたとされています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p class="yjSlinkDirectlink ClapLv1TextBlock_Chie-TextBlock__Text__1jsQC ClapLv1TextBlock_Chie-TextBlock__Text--mediumRelative__3HSR8 ClapLv1TextBlock_Chie-TextBlock__Text--SpaceOut__3kF8R ClapLv1TextBlock_Chie-TextBlock__Text--preLine__2SRma">しかしその三人の名前は分かっておらず、</p>
<p><ruby>字<rt>あざな</rt></ruby>である<span style="font-size: 12pt;">「伯興」「仲興」「叔興」</span>のみがかろうじて分かる程度になっています。</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただその中で曹褒は、次兄である「仲興」ではないかとされています。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>素性がはっきりしていない人物が多いこの時代の中にあって、</p>
<p>曹仁については色々と分かっている情報も多いです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみに<span style="font-size: 12pt;">父親が<ruby>曹熾<rt>そうし</rt></ruby></span>であり、<span style="font-size: 12pt;">弟が曹純</span>でもあります。</p>
<p>ただ父親を早くに亡くしており、曹純とも別居して過ごしていたようです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹仁は曹操にとって従弟にあたり、</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「魏志」曹仁伝</span>には、<span style="font-size: 12pt;">弓術・馬術・狩猟を好んでいた</span>と記録が残されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな曹仁ですが、多くの群雄が割拠していくと、</p>
<p>曹仁もまた千人余りの若者を集めて徐州の淮水あたりの地域で暴れ回っていたようです。</p>
<p>その後に曹操に従うようになると、曹操から<span style="font-size: 12pt;">別部司馬</span>に任じられています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は曹仁を非常に信頼しており、曹仁も大事な戦いには常に参加しており、</p>
<p>その中にあって確実に結果を出し続けていくことになります。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">各地での大活躍</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11193 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難.jpg" alt="" width="749" height="499" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難.jpg 4247w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難-300x200.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難-768x512.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2023/12/苦難-1024x683.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 749px) 100vw, 749px" /></p>
<p>初平四年（１９３年）に曹操が<span style="font-size: 12pt;">袁術討伐</span>を行った際には、</p>
<p>曹仁多くの兵士を討ち取り、多くを捕らえる活躍を見せています。</p>
<p>その数はかなりのものだったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また曹操の父である曹嵩が徐州で殺害されると、</p>
<p>曹操は<span style="font-size: 12pt;">陶謙討伐</span>に乗り出すわけですが、この時の先鋒を務めたのが曹仁でもありました。</p>
<p>他にも陶謙軍の大将を任されていた呂由を打ち破ってもいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そもそもこの時の曹仁は騎兵を率いていたということですので、</p>
<p>曹操軍にとっては間違いなく主力部隊であったでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>勿論曹仁の騎兵部隊と同様に、曹操軍に加入したばかりの青州兵も暴れに暴れたようですが・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p class="entry-title">興平元年（１９４年）になると、<span style="font-size: 12pt;">呂布討伐</span>に乗り出し、</p>
<p>今度は呂布の大将であった劉何を生け捕りにすることにも成功しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>劉表と繋がりがある<span style="font-size: 12pt;">張繍討伐</span>に乗り出した際には、</p>
<p>別動隊を率いて近隣の県を攻撃して<span style="font-size: 12pt;">三千人を捕虜</span>としたわけですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いの中で曹操が張繍・賈詡の罠にかかってしまったことで敗れると、</p>
<p>曹昂・曹安民・典韋などを失うものの、<span style="font-size: 12pt;">曹仁は追撃してきた張繍軍の撃退に成功</span>していたりします。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">袁紹＆高幹との戦い</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11423 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城.png" alt="" width="747" height="498" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城.png 3000w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城-300x200.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城-768x512.png 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2022/08/佇ずむ城-1024x683.png 1024w" sizes="auto, (max-width: 747px) 100vw, 747px" /></p>
<p>建安五年（２００年）に曹操と袁紹が官渡の闘いで激突した際には、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>袁紹に命じられた劉備が攻撃をしてくると、</p>
<p>多くの諸県を袁紹側に引き込む事に劉備は成功していますが、</p>
<p>これに対応したのが実は曹仁でもありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹仁は曹操に対して次のように語りました。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 12pt;">劉備が率いている軍勢は、</span><span style="font-size: 12pt;">もともと袁紹の兵士らですので、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">劉備がうまく使いこなす事は難しいでしょう。</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして曹仁は劉備を攻撃して見事に勝利を収め、</p>
<p>袁紹側に寝返った諸県の全ての奪還にも成功したといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また袁紹が西方のをの遮断するように韓猛に命じた際には、</p>
<p>曹仁が韓猛の動きに対応し、<span style="font-size: 12pt;">鶏洛山にて韓猛の撃破にも成功</span>しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして最終的に鳥巣の食糧庫の焼き討ちに曹操が成功すると、</p>
<p>官渡の戦いは曹操軍の勝利で幕を下ろしたのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>２０５年には、袁紹軍残党の高幹の籠城する<ruby>壷関<rt>こかん</rt></ruby>を包囲した際に、</p>
<p>曹操は<span style="font-size: 12pt;">「敵は一人残らず穴埋めにせよ。</span><span style="font-size: 12pt;">」</span>と布令した事に対して、</p>
<p>高幹軍は徹底的に交戦する姿勢を見せた事で、<ruby>壷関を</ruby>陥落させることができませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな時に、曹仁が曹操に次のようにいいます。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 12pt;">城（砦）を囲む際は、</span><span style="font-size: 12pt;">必ず生き残れる道を残しておくべきものです。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただでさえ堅固な城であり、</span><span style="font-size: 12pt;">確実に殺されると分かっていれば、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">相手は最後まで必死に抵抗するので、</span><span style="font-size: 12pt;">それはあまり良い事ではありません。</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして曹操は曹仁の進言を採用し、逃げ場を造った事で、</p>
<p>潼関の多くの者達が降伏や逃亡した事で攻略に成功したのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また反乱の首謀者であった高幹は、なんとか逃げることに成功するかと思われた矢先に、</p>
<p>荊州へともう一歩のところで、曹操配下の王琰に捕まって処刑されています。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">江陵防衛戦での活躍（曹仁VS周瑜）</span></h3>
<p>赤壁の戦いで大敗を喫した翌年の２０９年、</p>
<p>周瑜らは曹操領（元劉表領）であった荊州討伐に乗り出しますが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この際に江陵の守りを任されていたのが曹仁でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いの中で<span style="font-size: 12pt;">牛金が周瑜の軍勢に包囲</span>されてしまう事がありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時に曹仁は陳矯ら周囲の反対を押し切って、</p>
<p>選りすぐりの数十騎を選抜して突撃すると、<span style="font-size: 12pt;">見事に牛金を救い出す事に成功</span>しています。</p>
<p>この際に失った曹仁の兵士は数人だけだったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>無事に牛金を救い出して帰還した曹仁の姿を見た陳矯らは、</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「将軍は真に天上界の人物ですね。」</span>と驚いたと同時に、<span style="font-size: 12pt;">曹仁の勇ましさに心服</span>したのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これらのこともあったこともあり、</p>
<p>曹仁らは結束して周瑜の軍勢に立ち向かったこともあり、</p>
<p>不利な状況で約一年にわたって江陵城を守り通していますが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最終的には江陵城を捨てて撤退していますね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみにこの戦いの中で周瑜は右腹に流れ矢を食らっており、</p>
<p>最終的にその傷が悪化したことで周瑜は亡くなったとも言われています。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">潼関の守護神（曹仁VS馬超・韓遂ら関中十部）</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-15383 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①.png" alt="" width="748" height="499" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①.png 1536w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①-300x200.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①-1024x683.png 1024w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/賊①-768x512.png 768w" sizes="auto, (max-width: 748px) 100vw, 748px" /></p>
<p>江陵の戦いから約四年の月日が過ぎた２１１年、</p>
<p>涼州南部で<span style="font-size: 12pt;">馬超・韓遂ら関中十部</span>の豪族らが反乱を起こした際には、</p>
<p>曹操から曹仁は<ruby>潼関<rt>どうかん</rt></ruby>の守りを任されますが、期待に応えて潼関を守り通しています。</p>
<p>※関中十部＝馬超・韓遂・楊秋・侯選・程銀・成宜・梁興・李堪・張横・馬玩</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後に曹操が馬超・韓遂らの討伐に乗り出すと、</p>
<p>潼関の戦いで見事に打ち破り、反乱の駆逐に成功しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>反乱を起こした多くの者達の半数近くが討ち取られたりしていきますが、</p>
<p>楊秋は曹操に降伏後に大きく出世を果たしているのは余談です。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;">
<ul>
<li>馬超→最終的に妻子（閻圃妻になり、息子は処刑）・部下を捨て劉備の元へ。</li>
<li>韓遂→四年後に部下に殺害される。</li>
<li>楊秋→降伏後は、討寇将軍・位特進（三公に継ぐ程の名誉職）を経て臨涇侯に&#8230;</li>
<li>成宜・李堪→潼関討死。</li>
<li>梁興→翌年討死。</li>
<li>侯選・程銀→後に降伏。</li>
<li>張横・馬玩→不明。</li>
</ul>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>そればかりか曹丕が曹操の跡を継いだ２２０年に、</p>
<p>漢王朝（献帝）から禅譲を受けるように勧めた<span style="font-size: 12pt;">「魏公卿<span class="highlight">上尊号奏（公卿上尊号奏）」</span></span><span class="highlight">があるわけですが、</span></p>
<p><span class="highlight"><span style="font-size: 12pt;">この中に名前が残る４６人</span>の臣下の中で、</span><span class="highlight">楊秋は上から<span style="font-size: 12pt;">八番目</span>に名が残っていたりします。</span></p>
<blockquote class="wp-embedded-content" data-secret="QfuM4FKwrW"><p><a href="https://daisuki-sangokushi.com/2023/11/06/%e3%80%8c%e9%ad%8f%e5%85%ac%e5%8d%bf%e4%b8%8a%e5%b0%8a%e5%8f%b7%e5%a5%8f%ef%bc%88%e5%9b%9b%e5%8d%81%e5%85%ad%e5%90%8d%ef%bc%89%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">「魏公卿上尊号奏（四十六名）」について</a></p></blockquote>
<p><iframe loading="lazy" class="wp-embedded-content" sandbox="allow-scripts" security="restricted"  title="&#8220;「魏公卿上尊号奏（四十六名）」について&#8221; &#8212; なんでも三国志" src="https://daisuki-sangokushi.com/2023/11/06/%e3%80%8c%e9%ad%8f%e5%85%ac%e5%8d%bf%e4%b8%8a%e5%b0%8a%e5%8f%b7%e5%a5%8f%ef%bc%88%e5%9b%9b%e5%8d%81%e5%85%ad%e5%90%8d%ef%bc%89%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/embed/#?secret=cVjgSfzhKo#?secret=QfuM4FKwrW" data-secret="QfuM4FKwrW" width="500" height="282" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">樊城の守護神（曹仁VS関羽）</span></h3>
<p>曹操は荊州の動向が不穏になってくると、</p>
<p>曹仁に荊州方面の守りとして樊城に曹仁を置いています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>侯音が宛城で反乱を起こした際には、これを討伐したのも曹仁でした。</p>
<p>この時に曹仁は<span style="font-size: 12pt;">征南将軍</span>に任じられているのは余談です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後に関羽が襄陽城・樊城に攻め込んでくると、</p>
<p>曹仁は樊城にて迎え撃つものの、守備兵も少なく不利な状況だったといいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は于禁に七軍を率いさせて援軍へと向かわせますが、</p>
<p>天候が関羽に味方した事もあり、于禁の軍勢は<span style="font-size: 12pt;">長雨による洪水</span>によって大被害を被り、</p>
<p>関羽へとあっさりと降伏してしまう事態に・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また樊城の外で陣を敷いていた龐徳もまた洪水に巻き込まれた一人で、孤軍奮闘するも捕らえられて処刑され・・・</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして曹仁が守る樊城も例外ではなく、<span style="font-size: 12pt;">樊城も半ば水没</span>してしまう事態となってしまいます。</p>
<p>樊城の兵士も数千程度であり、備蓄食料も少なく、危機的な状況でもありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかしその中になって曹仁は諦めず、</p>
<p>兵を鼓舞して士気を上げ、満寵と共に樊城を守り通す事に成功しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>最終的に関羽の軍勢が樊城から撤退せざるをえなくなったのは、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>徐晃によって関羽が敗北してしまった事、</p>
<p>そして江陵城が呂蒙・陸遜らによって打ち破られていたからでもあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>まさに曹仁の粘り勝ちといった所だったでしょうね。</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">大将軍、そして大司馬にまで上り詰めた曹仁</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11744 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛.jpg" alt="" width="747" height="419" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛.jpg 1456w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛-300x168.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛-768x430.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/豪華絢爛-1024x574.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 747px) 100vw, 747px" /></p>
<p>建安２５年（２２０年）に曹操がこの世を去ってしまうと、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">曹丕は曹仁を車騎将軍に任じ、</span><span style="font-size: 12pt;">都督荊揚益州諸軍事を任せ、陳侯に封じています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">この時に曹仁の父親である曹熾に対しても、陳穆侯が追贈されていますね。</span></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ちなみにまだ曹操が生存していた際に、</p>
<p>曹彰が鳥丸賊・鮮卑族の討伐に命じられたことがあったわけですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>鄴にいた曹丕は討伐に出陣する曹彰に対して</p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「大将となって法を遵法する事、征南将軍（曹仁）のようであれ！！」</span></p>
<p>と述べた事があり、曹丕の曹仁を高く評価していた事がうかがえる逸話となっています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>話を戻しますが、曹操が亡くなった事につけ込んで、</p>
<p>呉の軍勢が襄陽へと攻め込んできたわけですが、</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この時に襄陽城や樊城に食糧が確保できてないかった事からも、襄陽城を捨てる形をとっていますね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>結果として襄陽城は孫権によって奪われてしまうわけですが、</p>
<p>その後に曹仁は徐晃と共に襄陽城奪取を成功し、見事に奪い返しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして曹仁は夏侯惇の跡を引き継ぐ形で<span style="font-size: 12pt;">大将軍</span>に任じられます。</p>
<p>後に臨潁に移屯を命じられる事になるわけですが、その際に<span style="font-size: 12pt;">大将軍に代わり、大司馬</span>に任じられる事に・・・</p>
<h3><span style="font-size: 18pt;">曹仁の最期</span></h3>
<p><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-11745 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀.jpg" alt="" width="747" height="409" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀.jpg 2628w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀-300x164.jpg 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀-768x421.jpg 768w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/祀-1024x561.jpg 1024w" sizes="auto, (max-width: 747px) 100vw, 747px" /></p>
<p>曹丕は孫権が臣従を誓って近づいた際に、</p>
<p>皇太子であった孫登を人質として送るように命じますが、</p>
<p>孫権がその命令に従う事がなかった為に、夷陵の大戦後をつくような形で<span style="font-size: 12pt;">三方面から呉へと侵攻を開始</span>したのでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この際に<span style="font-size: 12pt;">曹仁は濡須口への侵攻</span>を任されています。</p>
<ul>
<li><span style="font-size: 12pt;">濡須口（曹仁など）</span></li>
<li><span style="font-size: 12pt;">洞口（曹休・張遼・臧覇など）</span></li>
<li><span style="font-size: 12pt;">江陵（曹真・夏侯尚・張郃・徐晃など）</span></li>
</ul>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただ濡須口攻略を任された曹仁ですが、</p>
<p>圧倒的に兵力的にも勝っていたにも関わらず、朱桓に撃退されてしまいます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ただこの戦いの直後に急死している事を考えても、</p>
<p>おそらく曹仁は病気を患っていた可能性も高いと個人的には考えています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>実際にこの濡須口の戦い（第三次）で朱桓の守る濡須城へと攻め込んで敗れたのは、</p>
<p>曹仁というより、息子である<span style="font-size: 12pt;">曹泰</span>だからですね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>兎にも角にも長らく曹操・曹丕を支え続けた曹仁でしたが、</p>
<p>先程も軽く述べたように、この濡須口の戦い直後に病死しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そんな曹仁ですが、<span style="font-size: 12pt;">「忠侯」</span>と諡名が与えられ、</p>
<p>後に曹叡によって、曹仁は夏侯惇・程昱と共に<span style="font-size: 12pt;">曹操の廟庭</span>に祀られています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その後も<span style="font-size: 12pt;">曹操の廟庭に</span>は、２３人の人物（合計２６人）が合祀されていますが、</p>
<p>その最初の三人のうちの一人だった事を考えても、</p>
<p>曹仁の功績がどれほどまでに大きかったのが窺い知れる逸話の一つでしょう。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 100%;"><span style="font-size: 14pt;">-参考までに合祀された人物一覧-</span></p>
<ul>
<li>２３３年（曹仁・夏侯惇・程昱）</li>
<li>２４３年 （夏侯淵・曹洪・曹休・曹真・夏侯尚・張遼・楽進・張郃・徐晃・李典・臧覇・文聘・典韋 ・朱霊・龐悳・鍾繇・陳羣・華歆・王朗・桓階）</li>
<li>２４４年（荀攸）</li>
<li>２５１年（司馬懿）</li>
<li>２６２年（郭嘉）</li>
</ul>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>曹操の精鋭騎兵隊・虎豹騎（こひょうき）の力を引き出した曹純</title>
		<link>https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/12/%e8%99%8e%e8%b1%b9%e9%a8%8e%ef%bc%88%e3%81%93%e3%81%b2%e3%82%87%e3%81%86%e3%81%8d%ef%bc%89%e3%81%ae%e5%8a%9b%e3%82%92%e5%bc%95%e3%81%8d%e5%87%ba%e3%81%97%e3%81%9f%e6%9b%b9%e7%b4%94/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[nekozyarashi]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Oct 2019 23:38:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[曹純]]></category>
		<category><![CDATA[虎豹騎]]></category>
		<category><![CDATA[長坂坡の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[鳥丸族]]></category>
		<category><![CDATA[鳥丸]]></category>
		<category><![CDATA[烏桓族]]></category>
		<category><![CDATA[袁譚の首]]></category>
		<category><![CDATA[江陵]]></category>
		<category><![CDATA[袁譚]]></category>
		<category><![CDATA[蹋頓]]></category>
		<category><![CDATA[何皮]]></category>
		<category><![CDATA[大活躍]]></category>
		<category><![CDATA[精鋭騎馬隊]]></category>
		<category><![CDATA[白狼山]]></category>
		<category><![CDATA[潼関]]></category>
		<category><![CDATA[関中諸将]]></category>
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		<category><![CDATA[劉備]]></category>
		<category><![CDATA[李堪]]></category>
		<category><![CDATA[曹仁]]></category>
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					<description><![CDATA[虎豹騎 -曹操軍最強の精鋭騎兵部隊- 虎豹騎（こひょうき）とは、後漢末期から三国時代初期にかけて、 曹操が編成した直属の精鋭騎兵部隊です。 &#160; その名が示すように、「虎」や「豹」のような猛々しさを象徴する部隊で [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h3><span style="font-size: 18pt;">虎豹騎 -曹操軍最強の精鋭騎兵部隊-</span></h3>
<p><span style="font-size: 12pt;"><img loading="lazy" decoding="async" class=" wp-image-8466 alignnone" src="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/騎馬隊.png" alt="" width="554" height="415" srcset="https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/騎馬隊.png 980w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/騎馬隊-300x225.png 300w, https://daisuki-sangokushi.com/wp-content/uploads/2019/10/騎馬隊-768x576.png 768w" sizes="auto, (max-width: 554px) 100vw, 554px" /></span></p>
<p>虎豹騎（こひょうき）とは、後漢末期から三国時代初期にかけて、</p>
<p>曹操が編成した直属の精鋭騎兵部隊です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>その名が示すように、「虎」や「豹」のような猛々しさを象徴する部隊であり、</p>
<p>曹操軍の数ある軍団の中でも特に選び抜かれた精鋭のみで構成されていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>『三国志』には詳細な編制までは記されていませんが、</p>
<p>重要な戦役には必ずと言ってよいほど投入されており、曹操軍の切り札ともいえる存在でした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">虎豹騎誕生まで</span></h4>
<p>曹操軍は創設当初から騎兵戦力を重視していました。</p>
<p>徐州征討や呂布討伐、さらには官渡の戦い以前にも騎兵部隊は存在しており、その運用では曹仁が重要な役割を担っていました。</p>
<p>しかし、この頃の史料にはまだ「虎豹騎」という名称は登場していません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>正史『三国志』に虎豹騎が初めて見えるのは、</p>
<p>建安５年（２００年）の官渡の戦いの後であり、河北平定へ向かう時期からになります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのため、官渡以前の曹仁らが率いた騎兵部隊が母体となり、</p>
<p>戦後に再編・精鋭化された結果、虎豹騎が誕生したと考えるのが最も自然でしょう。</p>
<p>ただし、この成立過程については正史に明確な記述はありません。</p>
<blockquote class="wp-embedded-content" data-secret="BihCG9X1sb"><p><a href="https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/28/%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%82%92%e6%94%af%e3%81%88%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%81%9f%e6%9b%b9%e4%bb%81%ef%bc%88%e6%9b%b9%e4%bb%81%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%97%e3%81%a6%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%81%aa%e3%81%97%ef%bc%89/">曹操を最前線で支え続けた曹仁（曹仁なくして曹操なし）</a></p></blockquote>
<p><iframe loading="lazy" class="wp-embedded-content" sandbox="allow-scripts" security="restricted"  title="&#8220;曹操を最前線で支え続けた曹仁（曹仁なくして曹操なし）&#8221; &#8212; なんでも三国志" src="https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/28/%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%82%92%e6%94%af%e3%81%88%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%81%9f%e6%9b%b9%e4%bb%81%ef%bc%88%e6%9b%b9%e4%bb%81%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%97%e3%81%a6%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%81%aa%e3%81%97%ef%bc%89/embed/#?secret=iWBKrDt2Bv#?secret=BihCG9X1sb" data-secret="BihCG9X1sb" width="500" height="282" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">指揮官となった曹純</span></h4>
<p>虎豹騎の歴史を語る上で欠かせない人物が、曹純です。</p>
<p>曹純は曹仁の実弟であり、宗族将軍の一人として曹操から厚い信任を受けていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>正史『三国志』では、曹純は</p>
<ul>
<li>法令をよく守らせる</li>
<li>部下への恩情を忘れない</li>
<li>将兵から深く慕われた</li>
</ul>
<p>人物として描かれています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そのため、虎豹騎は曹純の統率下で最も高い戦闘力を発揮したと考えられています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">河北平定での活躍</span></h4>
<p>官渡の戦いで袁紹を破った曹操でしたが、河北はなお袁紹の息子たちによって支配されていました。</p>
<p>その後、袁家遺児（袁譚・袁煕・袁尚）との戦いが始まります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>建安１０年（２０５年）、南皮の戦いでは曹純率いる虎豹騎が突撃を敢行し、</p>
<p>敗走する袁譚を追撃して討ち取りました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>これは虎豹騎が正史上で残した代表的な戦果の一つです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>なお、袁譚は敗走中に落馬し、追いついた曹純に対して</p>
<p data-start="113" data-end="138">「私ならお前を富貴にしてやることができるぞ」</p>
<p data-start="113" data-end="138">と命乞いをした。</p>
<p data-start="156" data-end="182">
<p data-start="156" data-end="182">しかし曹純はこれを受け入れず、その場で袁譚を斬り捨てています。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">白狼山の戦い</span></h4>
<p>建安１２年（２０７年）、曹操は北方へ遠征し、袁尚・袁熙が逃げ込んだ烏桓（烏丸）を討伐しました。</p>
<p>有名な白狼山の戦いです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いでは、虎豹騎は機動力を生かして敵軍へ突撃し、烏桓の王である蹋頓を討ち取りました。</p>
<p>この勝利によって袁尚・袁熙勢力は事実上壊滅し、曹操は華北統一をほぼ完成させます。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">長坂の戦い</span></h4>
<p>建安１３年（２０８年）、荊州へ進軍した曹操は、敗走する劉備を追撃しました。</p>
<p>この長坂の戦いでも虎豹騎は先鋒を務めています。</p>
<p>曹純率いる精鋭騎兵は猛烈な速度で追撃し、劉備軍を大混乱に陥れました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>この戦いでは、</p>
<ul>
<li>劉備の娘二人を捕らえる</li>
<li>多数の物資を鹵獲する</li>
</ul>
<p>などの戦果を挙げています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一方、『三国志演義』で描かれるような、</p>
<p>趙雲との大規模な一騎討ちや、虎豹騎との激しい死闘については、多くが小説による脚色です。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">江陵制圧</span></h4>
<p>長坂の勝利後、</p>
<p>曹純率いる虎豹騎はさらに南進し、劉備よりも早く江陵へ到着しました。</p>
<p>江陵には荊州最大級の兵糧や軍需物資が集積されており、その確保は曹操軍にとって極めて大きな意味を持ちました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>結果として、劉備は十分な兵糧や軍備を確保できず、その後は夏口へ退却せざるを得なくなります。</p>
<p>虎豹騎の迅速な行動は、曹操軍の南征を支えた重要な成功の一つでした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">曹純の死と虎豹騎</span></h4>
<p>建安１５年（２１０年）、曹純は病没しました。</p>
<p>『三国志』には、曹純の死後について興味深い記事があります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>曹操は、</p>
<p>「これほどの精鋭部隊を任せられる人物はもういない」</p>
<p>と判断し、新たな専任指揮官を置きませんでした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして虎豹騎は、そのまま曹操直属の親衛・精鋭騎兵として再編されます。</p>
<p>この記録からも、曹操が曹純の統率力を非常に高く評価していたことがうかがえます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>虎豹騎は人数こそ不明ですが、</p>
<ul>
<li>宗族将軍が直接率いる</li>
<li>最精鋭の騎兵のみで編成</li>
<li>常に重要戦役へ投入</li>
<li>奇襲・追撃・決戦で活躍</li>
</ul>
<p>という特徴を備えていました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>現代で例えるなら、「近衛騎兵」と「機動打撃部隊」を兼ね備えた存在だったといえるでしょう。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">潼関の戦い</span></h4>
<p>曹純亡き翌年にあたる建安１６年（２１１年）、</p>
<p>関中では馬超・韓遂らを中心とする関中諸将が曹操に反旗を翻しました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>一般には「馬超・韓遂の乱」とも呼ばれますが、</p>
<p>実際には複数の豪族による連合軍であり、「関中諸将の反乱」と呼ぶ方が正確です。</p>
<p>この戦いでも虎豹騎は主力として投入されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>そして成宜・李堪らを討ち取る成果を上げています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>また、虎豹騎と並ぶ曹操の直属精鋭として、許褚が率いた親衛歩兵「虎士」が知られていますが、</p>
<p>同じくこの戦いで活躍しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>虎豹騎が機動力を生かして戦場を駆け巡る精鋭騎兵であったのに対し、</p>
<p>虎士は曹操の身辺警護や決戦での白兵戦を担う近衛部隊として重要な役割を果たしたのでした。</p>
<h4><span style="font-size: 18pt;">演義との違い＆虎士</span></h4>
<p>『三国志演義』では虎豹騎は趙雲や関羽らと激しく戦う精鋭部隊として華々しく描かれています。</p>
<p>一方、正史では部隊の詳細な編制や戦術についての記録は多くありません。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>しかし、南皮・白狼山・長坂・潼関といった曹操軍の重要な戦いには必ず投入されており、</p>
<p>その実戦での働きから見ても、虎豹騎が曹操軍最強クラスの騎兵部隊であったことは疑いありません。</p>
<blockquote class="wp-embedded-content" data-secret="e5OygLZ1bk"><p><a href="https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/12/%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%81%ae%e7%b2%be%e9%8b%ad%e6%ad%a9%e5%85%b5%e9%83%a8%e9%9a%8a%e3%80%8c%e8%99%8e%e5%a3%ab%ef%bc%88%e3%81%93%e3%81%97%ef%bc%89%e3%80%8d/">曹操の精鋭歩兵部隊「虎士（こし）」</a></p></blockquote>
<p><iframe loading="lazy" class="wp-embedded-content" sandbox="allow-scripts" security="restricted"  title="&#8220;曹操の精鋭歩兵部隊「虎士（こし）」&#8221; &#8212; なんでも三国志" src="https://daisuki-sangokushi.com/2019/10/12/%e6%9b%b9%e6%93%8d%e3%81%ae%e7%b2%be%e9%8b%ad%e6%ad%a9%e5%85%b5%e9%83%a8%e9%9a%8a%e3%80%8c%e8%99%8e%e5%a3%ab%ef%bc%88%e3%81%93%e3%81%97%ef%bc%89%e3%80%8d/embed/#?secret=LpUpwKmYSY#?secret=e5OygLZ1bk" data-secret="e5OygLZ1bk" width="500" height="282" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no"></iframe></p>
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