群雄割拠時代の引き金を引いた劉焉

劉焉(りゅうえん)は、前漢の皇族であった劉余の末裔であり、

漢王朝の血統を受け継いでいました。

その為、後漢内でも早々と出世しています。

 

しかし後漢の政治は腐敗しまくりで、

反乱が各地で勃発し、地方の権威は地に落ちていました。

 

劉焉はそこに目を付け、刺史の支配力が弱体化しているという理由で、

州を治める「刺史」に代わり、「牧」を置くように霊帝に進言します。

これにより各地に州牧が置かれます。

 

州牧には軍事権が与えられ、

これにより各地の州牧は、力を持つようになります。

 

州牧制を導入した事で、

群雄が割拠する時代へ突入していきます。

劉焉の野望

もともと劉焉は、交州に行こうと考えていました。

 

そんな折、益州出身であった董扶(とうふ)という人物が、

「益州は天子(皇帝)の気が流れてますよ」と劉焉に告げます。

 

そうすると劉焉は益州牧になる事を願い出て、

益州に旅立っています。

劉焉、夢を現実にする

 

劉焉が益州に入ると益州勢力をまとめあげ、

積極的に善政をしいてます。

 

そして張魯・張楊を、

益州と長安の通り道である漢中に送り込みます。

※漢中到着後、張楊は張魯に殺害されます。

 

そして中央からの使者を漢中で足止めさせ、

張魯によって殺させていました。

 

劉焉の言い分としては、

「張魯が邪魔するから連絡できないんですよね」

なんて言ったりしています。

 

やりたい放題していた劉焉は、

1000台以上の豪華な馬車を作ったりして、

自分が皇帝であるといわんばかりの態度を取ります。

 

 

またこの時期、中央の情勢が悪化したことで、

益州に多くの人が流れてきます。

 

この中から選りすぐりの者達を選び、

「東州兵」という劉焉の軍隊を作り上げています。

献帝の懐柔策

劉焉は、三男の劉瑁(りゅうぼう)以外の子供を益州に連れてこず、

そのまま献帝に仕えさせていました。

 

しかし劉焉の野望が明らかになってきたと悟った献帝は、

劉焉の子である劉璋を使者として送り、懐柔しようとします。

 

それに対して劉焉は、劉璋を益州に留めおき、

献帝の使者を無視してしまいます。

 

この出来事をもって、

献帝は劉焉を懐柔する事を諦めたそうです。

長安奪取計画

長安では、董卓の専横が続いていましたが、

董卓が呂布によって殺害される事件が起こります。

その後、董卓軍残党であった李傕・郭汜が長安を奪取します。

 

そんな折に馬騰が、長安を襲う計画を立てます。

この計画に劉焉と長安にいた長男の劉範(りゅうはん)がのってしまいます。

 

 

しかしこの計画があっさりと漏れ、

長安にいた劉範・次男の劉誕(りゅうたん)が李傕・郭汜によって討ち取られます。

また馬騰も長安襲撃をするものの撃退されてしまいます。

 

中央から身を引き、地方での独立国の夢を見た劉焉でしたが、

長安を奪おうと欲を出したばかりに長男・次男を失ってしまいます。

綿竹に雷が落ちる

益州を治めていた劉焉ですが、

この当時、成都ではなく、綿竹県が中心都市でした。

 

しかし、そこに偶然にも雷が落ちて、

何もかも焼けてしまいます。

 

これによって劉焉は、

益州の奥地である成都に拠点を移しています。

劉焉の最後

地方での実質的な独立の夢を叶えた劉焉ですが、

長男・次男を失い、中心都市であった綿竹が雷で焼けてしまいます。

 

不運が重なってしまった劉焉は、病気がちになり、

最終的に悪性の腫瘍を患ってしまい、この世を去ります。

 

そんな劉焉を陳寿は次のように評価しています。

「劉焉は天子への野心を露骨にし、判断力に欠けた人物である」

三国志演義での劉焉

三国志演義では、黄巾の乱が勃発した時、

劉焉は幽州牧に任命されています。

(※正史での幽州牧は劉虞です。)

 

そして劉焉は、幽州で義勇軍の募集をかけるのですが、

そこで参加したのが劉備・関羽・張飛です。

 

 

また、劉焉が益州で勢力を築き上げ、

跡を継いだ劉璋は、劉備に降伏していますし、

 

劉備が蜀を建国し、

跡を継いだ劉禅が、魏の鄧艾に降伏しています。

 

 

三国志演義で、劉焉と劉備を最初の巡り合わせたのは、

劉備の入蜀への伏線として描いたのだと思いますし、

 

劉璋と劉禅の国の滅亡の仕方も合わせて、

意識していたのだと思います。