劉備は劉邦(高祖)の子孫なのか?

劉備は漢王朝の創始者である劉邦の子孫だとされています。

 

これは三国志演義だけではなく、

正史にも記述が残っている内容でもあります。

 

前漢の六代目皇帝である景帝(劉啓)の息子に、劉勝という人物がいたわけですが、

劉勝は中山靖王ちゅうざんせいおうに任じられています。

 

この劉勝の子孫の一人が劉備となるわけです。

 

 

ちなみに前漢の最盛期を築いたと言われているのが、

武帝(劉徹)であるわけですが、劉勝は武帝の兄にあたる人物になります。

 

「史記」を著した司馬遷が仕えたのが武帝でもあったりします。

 

他にも曹丕が好きであったことでも知られる葡萄酒を、

中国に伝えたとされる張騫も、武帝に仕えた一人だったりしますね。

 

 

他には劉勝の兄にあたる人物に、

後に漢王朝を復興させた劉秀(洪武帝)の先祖にあたる劉発がいます。

劉貞(劉備の先祖)と涿郡涿県

劉勝の息子の一人に劉貞がいましたが、涿郡涿県の陸城亭侯に任命されています。

しかし後に劉貞は、陸城亭侯の地位を失っています。

 

ちなみに第七代皇帝にあたる武帝が、

元鼎五年(紀元前112年)に、列侯であった106 人が免じられたとされているので、

劉貞が陸城亭侯の地位を失ったのもこの時だとされています。

 

しかし劉貞をはじめその子孫達は、引き続き涿郡涿県に住みついたといいます。

だからこそ子孫とされる劉備が涿県に住んでいたわけですね。

約二百年の空白期間(劉貞→劉雄)

劉備の先祖と言われている劉貞の記述ですが、

「蜀志」先主伝に記載はされているものの、実はそれ以降の記録が飛んでいます。

 

空白期間は約二百年にも及びます。

 

そして二百年の月日が飛んだ時に出てくる人物が、劉備の祖父にあたる劉雄になり、

次いで劉備の父である劉弘(劉雄の息子)の事が書かれてあります。

 

 

「三国志(正史)」である「蜀志」先主伝に記録が残されているとはいえ、

 

二百年の空白期間があるということは、

それが劉備の系譜の胡散臭さが取り上げられたりする理由になっていますね。

 

 

ちなみに「三国志演義」で、劉備が呂布に敗れて曹操に頼った事があるわけですが、

この時に劉備は献帝に拝謁しており、献帝が劉備の系譜を確認した逸話が盛り込まれていますが、

 

あくまで「正史」に残る記録ではなく、「三国志演義」の中での逸話になります。

 

最後に結論を述べますと、劉備が劉邦の血筋を継いでいる可能性は十二分にあるとは思いますが、

確定する証拠はないのが現状であり、実際にどうだったのかはあくまで想像するしかないのが現状です。

 

これは劉備だけではなく、曹操が劉邦の功臣である曹参の子孫と書かれてあったり、

孫堅が「孫氏の兵法書」で知られる孫武の末裔と書かれてあるのも同じことが言えますね。

  • 曹操が曹参の末裔→「魏志」武帝紀
  • 孫堅が孫武の末裔→「呉志」孫堅伝
  • 劉備が劉勝の末裔→「蜀志」先主伝