民衆の事を真剣に考えていた曹操
曹操と言えば、イメージとは裏腹に民衆を大事にしていた人物で、
実際に劉備や孫権と比べても比較にならないレベルです。
立場的に弱い民衆を気遣ったりしていたのは当たり前で、
実際に生活水準を保障した政策を実行したりもしています。
例えば202年に曹操が故郷に戻った際に、昔の知り合いに会うことがなく・・・
それは戦乱で皆亡くなっていたからであり、このことに嘆いた曹操は次のような言葉を残しています。
ちなみにこの逸話は「魏志」武帝紀に残されている逸話になります。
私が挙兵して以来に死んでしまった将兵がいる家族は、
親戚の中から後継者を置いて家の存続を第一に考えよ。
その際に必要な田圃であったり、耕すための牛であったりはこちらで準備致す。 それだけでなく、学ぶ為の環境も提供してあげよう。
また既に後継者がいる所に関しては、先祖を供養する為の廟を立ててあげよう。 |
他にも逃亡者を許した逸話であったり、
高齢者や若輩者や生涯を持つ者に対して生活保障を約束した逸話も残されています。
ここでは話が大きくそれてしまうのでこのあたりで終わりますが、
その辺りの詳細はこちらの記事に書いております。
麦畑を荒らすことなかれ。
曹操は屯田制を開始した事は有名ですが、
この際に多くの流民に耕作地を与えただけでなく、必要とする者には耕牛すらも貸し与えています。
またそれだけにとどまらず、農具や種子までを貸し与える事もあったのです。
この曹操の政策によって多くの者達が救われていますし、
ただ曹操自身もこれによって多くの税収の確保に成功している事もまた事実ですけどね。
そんな曹操には暴れ馬と麦畑の逸話が残されており、
これは「魏志」武帝紀の裴松之注「曹瞞伝」に書かれてある内容になります。
ある時に曹操が進軍中に麦畑の中を通らざるを得ない時がありました。
※三国志演義では張繍討伐の際に麦畑の話が使われています。
その際に曹操は将兵に向かって次のように命じました。
麦畑を荒らした者は処刑致す。 |
曹操の言葉を聞いた騎馬に乗っていた者達は全員下りて、
麦を手でかき分けながら慎重に進みます。
そんな折に曹操の馬が急遽暴れだし、麦畑を荒らしたのでした。
曹操は側近(主簿)に対して次のように問いかけます。
「私の罪はどうなるであろうか?」
これに対して側近(主簿)は返答します。
「『春秋』の取り決めによりますと、最上位の者に対しては罰しない事となっております。」
副官の言葉を聞いた曹操は思案し、自らの髪を剣でばっさりと切り落とします。
「ただ髪を切っただけなのか?」と思われる方もいるかもしれませんが、
儒教が盛んであったこの時代、髪を切る事は大きな罪を犯した者がされる処罰でもありました。
正史「三国志」を著した陳寿の父親が誰かは分かっていませんが、
「晋書」には街亭の戦いの際に馬謖に従っていたという記載が残されています。
その後に馬謖は大敗北を喫して処刑されてしまうわけですが、
この時に馬謖に従っていた張休や李盛も馬謖同様に処刑され、黄襲は兵を奪われています。
そして陳寿の父親も髠刑(剃髪刑)の処罰を受けています。
この事からも髪というのは非常に大事なもので、重い罰則だった事が分かる一つの事例だと思います。
ちなみにこの麦畑の話は、
以下のブルーレイの28話(第5部呂布滅亡(27~32話))に収録されています。
言語は中国語と日本語を選択できますし、興味ある人は購入してみるのもよいかもしれません。