「漢(前漢)」の建国
漢(かん)とは、前漢&後漢をまとめてそう呼んでいます。
始皇帝が建てた秦(しん)を劉邦が倒して作られたのが漢帝国。
これを「前漢」といいます。
また、劉邦の事を「高祖」と呼ぶことも多いです。
正確には劉邦と項羽が力を合わせて秦を滅ぼし、
項羽と天下制覇を競って全土を平定したのが劉邦なんですが、
その話まですると凄く長くなるので、ここでは簡潔にまとめます。
その前漢が出来たのが紀元前202年で、
ここから紀元前が終わって西暦8年まで続いたわけです。
つまり前漢は、二百年以上続いたことになりますね。
「新」の建国
西暦8年に、外戚の王莽(おうもう)によって
前漢は滅ぼされます。
ちなみに外戚とは皇帝の親戚にあたる者達をそう呼びますし、
ここで書いている外戚は皇帝の母親の方の親戚をいいますので軽く補足しておきます。
形上は「禅譲」といって、
国を前漢から譲られた形で皇帝になったということですが、
実際は普通に奪った感じですね。
王朝の正当性を証明する為の演出として使われたと考えると分かりやすいです。
奪ったというと響きは悪いですけど、頼まれて譲ったとなると響きはやはりいいですから・・・
一応この「禅譲」が中国初の禅譲と言われています
この新は、西暦23年まで続くので約15年の統治になります。
つまり一瞬で終わったということです。
ちなみに「しん」と呼ばれる国って、
このあたりの時代には何度も出てくるんですよ。
始皇帝が作った「秦」だったり、王莽が建国した「新」だったり、
三国時代をまとめた司馬炎が建国した「晋(しん)」だったりと・・・
このあたりは漢字で書かないと、
どの「しん(秦・新・晋)?」ってなったりするかもしれませんね。
「後漢」の建国
王莽によって前漢が滅ぼされ、
新が建国されましたが、動乱が続いていきます。
これを治めたのが、劉邦の子孫である劉秀(りゅうしゅう)という人物です。
ちなみに劉邦から数えると9代目の子孫にあたります。
この劉秀が復活させた漢を「後漢」と呼びますし、
漢を再び復興させた劉秀の事は、「光武帝」と呼んだりします。
この後漢ですが、しっかりと国が皇帝によって安定していたのは、
悲しい事ではありますが、劉秀(光武帝)・明帝・章帝の三代先までだったのでした。
外戚が力をつける
章帝が没すると、後漢の政治は一気に乱れていきます。
その理由は幼い皇帝が続き、
そんな皇帝が政治なんてできるはずがないですからね。
そこで皇帝の母側の親族(外戚)が政治に介入してくることで、
次第に権力を手中に収めていくことになります。
これにより皇帝の権力が弱まり、代わりに外戚が自然と力をつけていった感じですかね。
ちなみに幼帝の中には、生後100日程度で皇帝になった人もいたぐらいです。
その人物は5代皇帝 殤帝(しょうてい/劉隆)になるんですが、もうめちゃくちゃすぎます。
殤帝は2歳になったかどうかというレベルでこの世を去っています。
他にも9代皇帝になった沖帝(ちゅうてい)も2歳で皇帝になっています。
沖帝はもともと劉炳(りゅうへい)という姓名でしたが、
この沖帝も3歳で死去しています。
即位するのが幼すぎますし、死ぬのも早すぎます。
明らかに外戚が狙ってやりすぎた感じが少なからず出ていますね。
完全に自分達の為だけの政治を行う為といった感じに・・・
宦官・官僚が力をつける
外戚に続くように、次は宦官が力をつけていきます。
宦官とは一言で簡単に言ってしまうと、皇帝のお世話をする人達のことです。
皇帝の世話をすることが仕事であり、
常日頃から皇帝の傍にいることがほとんどでした。
ただ皇帝の傍に常日頃いるということは、
後宮の女性達に手を出す輩が出る可能性もあるために、
宦官になる前には必ず生殖器を切り取られることでなることができます。
そうすることで間違えても、
宦官の地を引いた子が皇帝になるなんてことが起こらないようにしたわけです。
夜の営みができない宦官の楽しみは自然と限られていく事になりますし、
財産や権力といったものに固執していくものが多かったのです。
皇帝のお世話をするのだから皇帝との間柄も非常に近い立場ですし、
ましてや幼い皇帝であったならば、皇帝が全力で宦官を頼りにするのも自然な流れです。
そしてそれらの宦官の中からやましい考えのもと、
皇帝を操ろうとする人達が現れていきます。
そして宦官がそんなもんだから、官僚も好き放題にやり始めていきます。
国の上層部の人達が私利私欲の為に政治を取り行うわけなので、
これにより国は大きく乱れたわけです。
三国志の舞台へ
そんな乱れた時代が続いていき、
12代皇帝 霊帝の時代には黄巾の乱が勃発します。
黄巾の乱とは、張角・張宝・張梁の三兄弟による大規模な宗教反乱のことですが、
この黄巾の乱は中国で初めての宗教反乱と言われています。
この黄巾の乱は鎮圧されてしまいますが、
曹操・孫堅・劉備など多くの三国志の主役が出現していく三国志の舞台へ突入していったわけです。
ちなみに14代 献帝の時代に、
曹操の息子である曹丕によって後漢は滅ぼされてしまいます。
これにより「魏」が建国されたんですが、
「新」の王莽と同じく禅譲という形をとっていますが、強制的に略奪した形ですね。
この後に劉備が蜀を建国し、孫権が呉を建国することにより、
中国で「同時に三人の皇帝が生まれる」という三国時代へと移っていきます。
軽く補足を入れておくと、劉備は「蜀」という国を建国したわけでなく、
あくまで曹丕によって滅ぼされた「後漢」を復活させるという意味で「漢」を名乗っています。
ただ「漢」だと前漢なのか後漢なのか劉備が建国した漢なのか不明なために、
劉邦(高祖)が建国した漢を「前漢」、劉秀(光武帝)が建国した漢を「後漢」として、
劉備が建国した漢を「蜀漢」「蜀」と後世で呼んだというだけです。