張角が起こした黄巾の乱は、

漢帝国衰退への道を加速させたのですが、

 

ここでは張角を支えた二人の弟について見ていきたいと思います。

 

 

「天・地・人」としても有名ですが、張三兄弟の次男・三男の二人ですね。

  • 天公将軍の張角
  • 地公将軍の張宝
  • 人公将軍の張梁

黄巾の乱の首謀者であり、三国時代の扉を開けた張角

張宝(ちょうほう)

張三兄弟の次男にあたるのが張宝になります。

 

184年2月に洛陽襲撃計画が漏洩すると、

張角は後漢からの討伐の手が伸びるのを恐れてすかさず蜂起したんですが、

 

その時に張角を支えたのが張宝・張梁の二人の弟でした。

 

 

張角は蜂起したまではよかったものの既に体調を崩しており、

まともに指揮ができないこともありました。

 

そこで張角に代わって、張宝が指揮をとっていたこともあったようです。

 

 

張角率いる黄巾の乱は、漢王朝に不満を持つ民衆らが次々に参加したことで、

爆発的に大規模なものとなっていきました。

 

 

しかし漢王朝が皇甫嵩・朱儁・盧植など実力のある将軍に命じ、

全力で黄巾賊討伐に乗り出すと、

 

張角らは次第に劣勢に追い込まれていく事になります。

 

 

そこで黄巾賊は広宗の城に立て籠もり、

皇甫嵩らの攻撃から必死に防衛したようです。

 

 

 

しかしそんな最中に、張角が病死してしまいます。

 

これにより黄巾賊らの士気も低下することになるのですが、

三男であった張梁が兄の遺志を引き継いで必死に兵士を鼓舞して籠城を続けました。

 

しかし張梁の奮闘むなしく、張梁が討死!

 

 

この時張角の遺体は棺に納められていたのですが、

皇甫嵩らに棺に納められていた張角の遺体から首を切り取られて洛陽へ送ったようです。

 

そして張角の首は、洛陽の木に吊るされて見せしめとされたと言われています。

 

 

 

 

残された次男の張宝ですが、

下曲陽の城で籠城して皇甫嵩を迎え撃ちます。

 

しかし張宝の奮闘むなしく、

皇甫嵩によってフルボッコされてしまったわけです。

 

 

これにより表面上指導者を完全に失うことになった黄巾の乱は終焉を迎えたのでした。

 

 

ただ張三兄弟による黄巾の乱は終わりを迎えたものの、

 

各地に残る黄巾賊の残党による反乱は、

これからも長く続くことになったのは忘れてはいけない事ですね。

三国志演義での張宝の描写

横山光輝三国志(2巻199P)より画像引用

 

 

三国志演義での張宝は、妖術使いとして描かれています。

張宝は城に篭城しながら妖術を駆使して漢軍を何度も撃退に成功。

 

 

しかし最終的に朱儁の計略によって破られて苦境に陥ると、

張宝の部下であった厳政は、張宝を裏切って殺害!

 

張宝の首を持って、厳政はさっさと朱儁らに降伏しています。

ちなみにこの厳政という人物ですが、三国志演義だけに登場する人物になりますね。

 

 

 

また「横山光輝三国志」での劉備は、

張宝の妖術の謎を見事に見抜いています。

 

そして劉備の奮闘により、張宝は討ち取られてしまうのでした。

 

張宝は妖術によって人々を惑わせ、優位に戦況を展開していましたが、

劉備の的確な判断と行動によって打ち砕かれたのです。

 

 

とどのつまり「横山光輝三国志」では、

劉備の英雄的な側面と知略を強調して描かれているわけです。

 

 

なので横山光輝は三国志演義を母体にしながらも、

 

「厳政の裏切りにより張宝が死亡した」

という内容をわざわざ変更して劉備の手柄にしている点からも、

 

黄巾の乱のデビュー戦をより一層と華々しいものとしたかったのでしょうね。

張梁(ちょうりょう)

張兄弟の三男にあたるのが張梁であり、

兄の張宝と共に張角を支えた人物の一人になります。

 

 

張角・張宝・張梁らは最初こそ優勢だったものの、

 

後漢が皇甫嵩・朱儁・盧植を起用したことで、

次第に追い詰められていくこととなります。

 

 

 

張梁は張角と共に広宗の城で籠城して、

皇甫嵩らの攻撃に耐えていたものの、

 

張角の病死という予期せぬ出来事が襲ったのでした。

 

 

張梁は張角の遺体を棺に納め、

皇甫嵩らに徹底的に抵抗していくわけですが、

 

奮闘空しく、最終的に張梁は討ち取られてしまいます。

 

 

 

そして最後に残された張宝ですが、

 

下曲陽の城で籠城するものの、

これまた皇甫嵩に攻め込まれて張梁同様に討ち取られてしまっています。

 

ちなみに三兄弟のうちで一番記録が残っていないのが、

末弟であるこの張梁でもあったりします。

三国志演義での張梁の描写

三国志演義での張梁は、

張角亡き後も張宝と共に漢軍との戦いを継続させますが、

 

曹操の火攻めによる戦術を受けて敗走してしまいます。

 

敗走した張梁ですが、その後も徹底的に抗戦するものの、

最終的には奇襲をかけられた形で討死しています。

横山光輝三国志(2巻206 P)より画像引用

 

 

この時の曹操による火計についてですが、

 

「横山光輝三国志」では、

劉備が見事な火計によって打ち破ったとされています。

 

また、戦場で劉備と出会った曹操は、

劉備の火計を「見事だ!」と称えるという描写があります。

横山光輝三国志(2巻121P)より画像引用

 

 

「横山光輝三国志」では、

劉備のデビュー戦として黄巾の乱が重要な位置を占めており、

 

劉備が活躍する場面が強調されています。

 

 

黄巾の乱三国時代の幕開けとも言える重大な出来事であり、

 

ここで曹操と劉備の二人が初めて出会ったことによって、

後の三国時代の舞台が形成されていく伏線を張ったのだと思います。

 

 

またこの出会いによって、二人の運命が交錯し、

乱世を駆け抜ける旅が始まったのです。

 

彼らの出会いはまさに三国時代の始まりを象徴であり、

その後の歴史に大きな影響を与えることになるのです。