蜀の腐敗

姜維が北伐を幾度となく行った事で、

国力が低下しており、

 

また蒋琬・費禕が死亡して後、

宦官の黄皓が劉禅に取り入り、完全に政治が乱れ、

その乱れは蜀全体に広がっていました。

 

また黄皓を劉禅から遠ざけようとしたものは、

左遷されたりと完全に漢王朝の末期症状に近い状態になっていました。

 

姜維自身も黄皓を駆逐しようとしたこともあり、

それを根に持った黄皓は逆に姜維を殺害しようと考えており、

 

蜀の最前基地であった漢中から、

姜維は成都へいくことすら殺害される危険を伴っており、

漢中にずっと居座って、魏の動向を監視していました。

魏が蜀へ侵攻を開始

 

蜀の腐敗事情を耳にしていた魏は、これを機に蜀を制圧しようと考えます。

そして鄧艾(とうがい)・鍾会(しょうかい)を大将にし、蜀への侵攻を開始します。

漢中制圧

まず魏軍は、蜀の玄関口に当たる漢中へ軍を進めました。

魏軍を漢中で迎え撃った姜維ですが、次第に追い詰められていきます。

 

姜維は、成都へ援軍を要請しますが、

姜維をよく思っていない黄皓によって邪魔され、援軍すら送らてきません。

劉禅に取り入り、蜀の政治の腐敗を招いた佞臣(宦官)黄皓

 

結果として、漢中を守り切れず、

姜維は「剣閣(けんかく)」まで軍を撤退させます。

剣閣防衛戦

 

剣閣まで蜀軍を撤退させた姜維ですが、

この剣閣という場所は、天然の要害になっており、

守りに適しており、攻めるに困難な場所でした。

 

ただここを突破される事があれば、

敵は成都になだれ込む為、絶対に突破を許してはいけない場所でもありました。

 

姜維はその天然の地形を生かして、

鄧艾・鍾会軍に大打撃を与え、魏の侵攻を防ぎます。

鄧艾別ルートで成都攻略を目指す

剣閣を落とすことが無理だと思った鄧艾は、

蜀の山岳ルートを命がけで進みます。

 

蜀はここから敵が来ることがないと思っていただけに

完全に油断していました。

 

鍾会軍は姜維が剣閣で足止めしていましたが、

鄧艾軍は別ルートを使い、綿竹関へ強襲をしかけました。

黄権から黄崇へ受け継がれる想い

綿竹関での防衛戦

綿竹関を守っていたのは、

諸葛亮の子供である諸葛瞻(しょかつせん)です。

 

諸葛瞻の息子である諸葛尚(しょかつしょう)も、

父である諸葛瞻に従っており、二人で鄧艾を迎え撃ちます。

 

しかし二人は、

綿竹関を守り切れずに討死してしまいます。

諸葛亮の子として、最後は蜀に殉じた諸葛瞻(しょかつせん)

 

 

もしここを諸葛瞻・諸葛尚親子が守り切っていれば、

引くに引けない鄧艾軍は全滅していた可能性もあったわけです。

 

後は残った鍾会軍を姜維が撃退できれば・・・。

しかしそうはいかず鄧艾軍が勝利し、そのまま成都へなだれ込みます。

黄権から黄崇へ受け継がれる想い

劉禅降伏

成都へなだれ込んだ鄧艾軍は、

劉禅に降伏するように進言します。

 

劉禅は、最後まで戦う意思はなく、

そのままあっさりと降伏してしまい、蜀(蜀漢)は滅亡します。

263年の出来事でした。

 

これによって、

三人の皇帝が存在する三国時代は終焉を迎えます。

劉禅は白布の如し

劉禅に降伏を勧めた陳寿と羅憲の師、譙周(しょうしゅう)