劉備と黄権

劉備は黄権を信頼し、黄権もまた劉備を信用し、

お互い言葉はなくとも相手を心から信頼していた間柄でした。

 

しかし関羽の復讐戦で呉と夷陵で激突しますが、

劉備は呉の陸遜の火計によって大敗を喫してしまいます。

 

この時、魏への対策で後方を任されていたのが黄権でした。

劉備が大敗した事で、魏と呉に挟まれ、進むも引くもできない状態まで追い込まれ、

黄権は魏に降伏します。

 

 

この時、黄権の妻子は蜀に滞在していましたが、

「裏切り者の妻子は処罰するのが妥当!」という意見が出ますが、

劉備はこの意見に首を横に振ります。

 

そして「裏切ったのは黄権ではない。私が黄権を裏切ってしまったのだ!!

だから黄権の妻子はこれまで同様の待遇をしてあげて欲しい」と静かに語ります。

 

そして魏に降伏した黄権も、

劉備によって妻子が殺されたという話が耳に入っても、

その話を信じることはありませんでした。

 

蜀と魏に分かれる事になった二人ですが、

二人の信頼関係は最後まで変わる事がなかったのです。

筋の通った生き方を貫き、劉備・曹丕から大きな信頼を受けた黄権

親の想いを黄崇が引き継ぐ

やむなく魏に降伏したことで、

劉備の為に、蜀の為に尽くすことができなくなった黄権は、

 

劉備への恩義・蜀への想いを忘れることなく、

その上で魏に忠誠を尽くし、240年に天寿を全うします。

 

 

しかしその想いは、

黄権の子である黄崇(こうすう)が引き継ぎます。

 

「父が蜀の為に尽くすことができなくなってしまった事、

そして父がいたから、劉備様がいたから、今の自分が生きている事を・・・」

 

 

そして263年に魏が蜀へ侵攻してきます。

 

魏軍を率いていたのは鍾会・鄧艾の二人でしたが、

姜維率いる蜀の主力部隊が守る剣閣を崩すことができませんでした。

 

そこで鄧艾は、

陰平の難道を通って剣閣を迂回するルートを選択し、

命がけで奇襲をしかけてきます。

 

これを迎え撃ったのが、諸葛亮の子である諸葛瞻(しょかつせん)と

諸葛瞻の子であった諸葛尚(しょかつしょう)でした。

黄崇の起死回生策

 

この諸葛瞻に従って出陣した一人に黄崇がいました。

 

諸葛瞻らは、まず涪県に向かいますが、

ここで何を思ったか躊躇してしまい、全く動こうとしませんでした。

 

そこで黄崇は、諸葛瞻に進言します。

「迂回ルートを回ってきた鄧艾軍に逃げ道はありません。

ここで我々が進軍して、天然の要害を抑えて待ち構えていれば、

自然と勝利を掴むことも可能でしょう。

 

とにかく簡単に鄧艾軍を平地に侵入させることだけは、

絶対に避けるべきです。」

黄崇、最後の恩返し

しかし黄崇の意見は、

諸葛瞻によって退けられてしまいます。

 

そして、鄧艾軍が進軍してきて要害を抑えてしまうと、

諸葛瞻らは涪県から綿竹関まで急ぎ撤退します。

 

 

黄崇は自分の考えを退けられ、

明らかに劣勢になった事で悔しい思いが込み上げますが、

 

最後に出来る事は蜀の為に命を投げ捨てて戦う事だと思い、

兵士達を一生懸命鼓舞して戦いますが、奮闘虚しく討死してしまいます。

 

残された諸葛瞻・諸葛尚親子ですが、

鄧艾軍を防ぐことができず、こちらも綿竹関で討死します。

諸葛亮の子として、最後は蜀に殉じた諸葛瞻(しょかつせん)

 

劉備が最後の最後まで絶大な信頼を寄せた黄権、

また劉備という人物を信じぬき、劉備への恩義を忘れる事がなかった黄権、

黄権の妻子を変わらない待遇で報いた劉備。

 

そして果たせなくなった父の想い、劉備への恩義に報いようとした黄崇。

 

結果は蜀滅亡というシナリオで幕を閉じるわけですが、

そこにはそれらを全てひっくるめて、

蜀と運命を共にした黄崇の物語があったことは忘れてはいけない。

タラレバ・・・

 

歴史にはタラレバということはありませんが、

それでももしこれが諸葛瞻によって聞き入れられていたら、

鄧艾軍は全滅していた可能性は十分にあったと思います。

 

蜀の内部へ命がけで進攻してきたわけですから、

天然の要害に守られた要害を突破する事は困難ですし、

 

食糧がない鄧艾軍に対して数日耐えるだけで、

残された道は全滅しかないのですから。

 

 

後は剣閣で足止めしている鍾会軍を、

協力して防ぎきればいいだけなのですから。

 

将来的な滅亡は避けられなかったとしても、

この戦いだけに関して言えば勝利していた可能性は十分にあったわけです。