出師の表

横山光輝三国志より画像引用

 

諸葛亮は、南蛮を平定した事で、

劉備の悲願であった漢王朝復興の為に、魏討伐を決意します。

 

また曹丕が崩御し、

曹叡が跡を継いだばかりで、チャンスと見たのである。

 

その時に諸葛亮が、

劉禅に対し、読み上げたのがこの「出師の表」です。

 

これには劉備から受けた大恩と国家安定の方法が記載され、

諸葛亮は魏を討って、劉備から受けた恩を果たしたいといった旨が記載されていました。

 

これより諸葛亮の北伐(ほくばつ)が開始されます。

「出師の表」&「後出師の表」

諸葛亮、北伐を開始する

第1次北伐

連戦連勝で勢いがあった蜀軍ですが、

街亭の戦いで、馬謖(ばしょく)が命令違反をし、失敗に終わってしまいます。

 

順調に勝ち進んでいただけに、

この馬謖の罪は重く、諸葛亮は馬謖を斬首の刑に処します。

 

諸葛亮によって有望視されていた馬謖ですが、

今後こういった命令違反が起こらないように、法に基づいて処刑してしまいます。

泣いて馬謖を斬る」という言葉はこの時に生まれた言葉です。

泣いて馬謖を切る

第2次北伐

第1次北伐が失敗し、

その年の冬に再度北伐を開始します。

 

しかし魏も蜀に対して対策を練っており、

陳倉(ちんそう)という場所に城を作っていました。

 

またこの時、第二次北伐をスムーズに進める為に、

諸葛亮は様々な新兵器を導入していました。

  • 雲梯(うんてい)・・・城を登る為のはしご車
  • 井闌(せいらん)・・・高い所から弓を撃つ為の車
  • 衝車(しょうしゃ)・・・城門を壊す為の車

 

 

様々な新兵器を導入した諸葛亮ですが、

雲梯・井闌・衝車は全て木からできていたので、

 

郝昭は「火」を使って、雲梯・井闌の兵器を壊し、

衝車には「石」を落として壊していきます。

 

また地中を掘って城内に攻撃をしかけようとしていることと気づくと、

これにも対応し、徹底的に諸葛亮の侵攻を防ぎました。

 

兵力は圧倒的に蜀軍が勝っていましたが、

陳倉を守っていた郝昭(かくしょう)が諸葛亮の侵攻を防ぎ、

諸葛亮を退却させています。

第3次北伐

これは本気で魏を攻める為のものではない戦いでした。

陰平(いんぺい)・武都(ぶと)という漢中の西側の場所を攻め落とします。

 

もともとこの地域は、政治的要素が非常に薄い地域で、

住民のほとんどが異民族というぐらいでした。

 

 

しかし二度の北伐に失敗した蜀の士気を高める為にも、

勝利することは大事なことだったのです。

 

ただ、この蜀軍占領により、

曹真と司馬懿(しばい)が大軍を派遣し、蜀へ侵攻しますが、

 

不運にも長雨が続いたため、魏軍の中で病気になる者も増え、

何の成果も出せずに退却します。また曹真も病気になった一人です。

第4次北伐

諸葛亮率いる蜀軍の4度目の遠征で、

祁山で迎え撃ったのは、司馬懿率いる魏軍でした。

 

この祁山の戦いを制したのは、諸葛亮でした。

魏軍は大きな被害を受け、魏の五大将軍の一人である張郃(ちょうこう)を討ち取っています。

蜀の五虎大将軍(関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超)みたいなものです。

 

大戦果を挙げた蜀軍ですが、

食糧が乏しくなり、退却しています。

第5次北伐(五丈原の戦い)

諸葛亮最後の北伐で、

五丈原(ごじょうげん)で、司馬懿と対峙します。

今回はこれまでと違い、長期戦覚悟の布陣で望みました。

 

しかしこの戦いの途中で、

諸葛亮は無念にもこの世を去ります。

 

ちなみに、「死せる孔明 生きる仲達を走らす」という言葉は、

ここで生まれています。

 

劉備の悲願を達成すべく奮闘した諸葛亮でしたが、

漢王朝復興を実現するにいたりませんでした。

横山光輝三国志より画像引用

諸葛亮の北伐まとめ

第1次〜第5次北伐をし、魏を攻めましたが、

諸葛亮は国力を大きく低下させるような戦いはしていません。

 

国力が魏よりはるかに劣っていた蜀が、

国に大きく支障が出るようなことをしては、

一度の失敗で国を滅ぼしてしまう可能性があったからです。

 

慎重になりすぎた結果、

北伐成功を収める事ができなかったものの、

 

魏に意識を向けている事で、

蜀の国にとってのカンフル剤みたいな役割を果たしていたような気がします。