曹叡崩御による曹芳即位

公孫淵を討伐してからほどなくして、

曹叡が36歳の若さでこの世を去ってしまいます。

 

叡亡き後は曹芳そうほうが跡を継ぎ、

幼かった曹芳を曹爽そうそうと司馬懿が協力体制で支える事になりました。

 

 

しかし司馬懿に実権を握られる事を恐れた曹爽は、

司馬懿を太傅たいふに祭り上げて権力の独占をはかったのでした。

 

太傅は名誉ある役職であったけれども、

それを除いてしまえば、ほとんど何の実権のないような役職でした。

 

これにより曹爽が魏の権力を掌握することに成功し、

曹一族や身近な臣下を国の重要な役職につけて、独占体制を敷いていくことになります。

 

 

曹丕・曹叡と続いてきた魏皇帝ではありますが、

曹芳の時代から次第に皇帝の権威が地に落ちていくことになるわけです。

蜀討伐で威勢を高めようとして威勢を失墜させてしまった曹爽

魏の高句麗討伐&占領

曹叡が死去し曹芳が跡を継いだわけですけど、

 

曹叡が死ぬ直前に司馬懿に命じて遼東半島の公孫淵を討伐していた事で、

遼東半島までの支配を拡大させていました。

 

遼東半島を手に入れたことは、

同時に朝鮮半島へのルートが開けた事を意味しています。

 

それで魏へ配信的な態度をとっていた高句麗に対して、

本格的に討伐が行うことにしたのです。

 

 

高句麗討伐で活躍したのが毌丘倹かんきゅうけんあり、

三年の月日をかけて高句麗を制圧するに至ったのでした。

 

ちなみに魏軍よりも高句麗軍の方が兵力的に勝っていましたが、

戦いが続いていく中で、戦慣れした魏が戦況を有利に展開していった感じですかね。

 

最終的に毌丘倹は高句麗の都であった丸都を破壊し、

高句麗の王であった位宮を討ち取ったことで戦いに決着がついたわけです。

高句麗討伐最大の功労者で、魏への忠誠を貫いた毌丘倹(かんきゅうけん)

 

 

余談にはなりますが、高句麗には得来とくらいという人物がおり、

 

「魏と争う事は高句麗を滅ぼすことになる!」

と高句麗の王であった位宮いきゅうに対して何度も直訴していました。

 

それは何日にもわたって飲まず食わずで直訴しており、

最後まで得来の言葉は位宮に届くことはなく、得来はそのまま餓死してしまったそうです。

 

 

この話を聞いた毌丘倹は、得来の墓を荒らすことを禁止し、

得来の妻子を見つけたとしても必ず見逃してあげるようにと部下に命じたという話が残っています。

魏の高句麗討伐の背景&高句麗討伐を未然に防ぐ事に命を懸けた高句麗の忠臣、得来(とくらい)

司馬懿のクーデター&司馬懿の死

太傅に祭り上げられた司馬懿でしたが、

 

魏をやりたい放題に独裁している曹爽一族をこのままにしておくわけにはいかず、

息子の司馬師・司馬昭と共にクーデターを計画します。

 

「やられたらやり返すからな!」

という司馬懿の心の叫びでもあったと思います。

 

 

曹爽は司馬懿を太傅に祭り上げたとはいえ、

知恵者であった司馬懿に対して警戒を解くことはありませんでした。

 

そこで司馬懿は病気と称し、

ボケたふりをして曹爽が油断するのを静かに待つ事にしたのです。

 

司馬懿一世一代の大演技を披露したわけですね。

 

 

この罠に完全にはまった曹爽は司馬懿の警戒を解いて完全に油断します。

 

司馬懿はその油断を見逃さず、

間髪入れずに宮中制圧を成し遂げたのでした。

 

これに驚いたのが曹爽本人でしたが、

時すでに遅く後の祭りだったのは言うまでもありませんね。

 

曹爽をはじめとした曹一族や曹爽側の人間は処刑された事で、

司馬一族の独裁政治が始まっていきます。

 

 

クーデターをきっかけに司馬一族の力を増大させたことで安心したのか、

それからほどなくして司馬懿はこの世を去っています。

司馬懿 -晋の土台を築いた諸葛亮のライバル-

孫権の錯乱&二宮の変

魏が高句麗制圧など領土拡大している中、呉では暗雲が立ち込めていました。

 

曹操・劉備とともに三国の基礎を築いた孫権も、

歳を取るにつれて錯乱状態になることも増えてきたわけです。

 

自分に逆らって意見する者を簡単に処刑したりと、

暗君と呼ばざるを得ないほどにかつての面影が薄れていました。

 

 

そして何より孫権の大失態というのが

「二宮の変(二宮事件)」ですね。

 

「二宮の変」とは太子であった孫登が病死した事で、

後継者争いを激化させてしまった事件になります。

 

もともと孫権には孫登という立派な跡継ぎがいたにもかかわらず、

孫権は孫和を可愛がったりと跡継ぎをきちんと決める事はありませんでした。

 

そんな中で孫登が病死してしまい、

孫和を太子にするものの孫覇も太子同様の扱いをするようになったりします。

短命だった事が悔やまれる心優しき皇太子、孫登(そんとう) ~孫登が長生きしていれば「二宮の変」も起こる事はなかった~

 

これにより臣下一同は孫和派と孫覇派にわかれることになり、

呉国内は更に乱れていく事になります。

 

 

この状況に危機感を覚えた陸遜は、

「太子と同じように孫覇殿を扱うのは間違っていますよ!」と孫権に対して進言するも、

 

これが孫覇派から激しく抵抗を受けた事で、

孫和派の状況は悪くなり、孫和派でもあった陸遜は失脚してしまいます。

 

そして何度も孫権から叱責される書状が送りつけられ、そんな中で陸遜は憤死してしまうのでした。

 

 

陸遜以外にも多くの者達が犠牲になったのが「二宮の変」であり、

最終的に孫権が下した結論は、どちらも跡継ぎにしないというものでした。

 

太子であった孫和は廃嫡となり、孫覇に関しては死罪になったわけです。

そして新たに孫亮が太子に置かれたのでした。

孫権崩御による孫亮即位

後継者争いで荒れに荒れた呉でしたが、

これに巻き込まれた形で呉を支えてきた多くの者達が処刑・憤死・流刑になってしまいます。

 

多くの苦難を乗り越えて「呉」を建国した孫権でしたが、

最後は自ら国内を大きく混乱させ、国力を低下させることをしたのです。

 

それからほどなくして孫権はこの世を去ります。

 

 

そして太子であった孫亮が孫権の跡を継ぐわけですが、

 

孫亮はまだまだ幼く、まともな政治が取れる状況でなかったこともあり、

形式上だけの皇帝となって呉は更に乱れていく事になります。

 

ちなみに孫権が死去したタイミングをチャンスとみた魏は、

呉への侵攻を開始していますが、これは普通に呉の勝利で幕を下ろしています。

 

 

その後、孫一族であった孫俊・孫綝らが、

孫亮を傀儡として好き放題な政治を行っていっただけでなく、

 

最終的には廃嫡にまで追い込まれていますからね。

 

もしも孫登が長生きして孫権の跡を継いでいれば、

孫権がボケてきていたとはいえ、ここまでひどい状況になることはなかったでしょう。

諸葛亮の「出師の表」の呉版、孫登の「遺言状」

 

 

孫権が最後に残した負の遺産は、

負の連鎖となって大きなうねりを巻き起こしていったのでした。

 

そして確実に呉滅亡への階段を一歩一歩と降りていくことになったのです。