三国志演義での司馬懿

横山光輝三国志(52巻86P)より画像引用

 

諸葛亮が第一次北伐を開始し、連戦連勝で長安に攻め入る勢いでしたが、

馬謖が命令違反を犯したことで街亭という地を司馬懿に奪われてしまいます。

 

 

蜀の喉元にあたる街亭を魏に抑えられてしまうと、

 

食糧輸送の問題なども含めて勝敗が完全に決してしまったことになり、

これ以上戦っていく事は不可能な状態になることを意味していました。

 

 

本来馬謖は山のふもとの道筋を抑えて、

魏軍を通させないようにするという役割を担っていましたが、

 

何を思ったか麓を守らずに山頂に陣を構えたのでした。

 

この時に馬謖の副将につけられていた王平は、

「道筋を抑えれば十万の兵が来ても簡単に通過する事ができないのに、

山頂に陣を敷いて包囲されたらどうするのか!?」と馬謖に注意を促したようです。

 

しかし馬謖は、兵法をなまじかじっており、

「高きによって低きを視るは勢いすでに破竹の如し」と言って王平の言葉に耳を傾けませんでした。

 

 

そして続けて王平が、

「山頂には水がない!

もし水を絶たれたらどうするのか!?」と問うと、

 

「死地に生あり」という言葉を持ち出します。

 

 

これ以上王平は何も言えず、馬謖と別で道筋の一部を抑えました。

 

 

しかし魏軍に山を包囲されてしまい、水を入手できなくなったことで、

馬謖軍は生米を食べたりと体調不良の兵士が続出してしまいます。

 

 

兵士の士気も低下し、このままでは非常にまずいと思った馬謖は、

最後は活路を求めて突撃するもその動きを読まれていて惨敗してしまいます。

 

その時魏軍を指揮していたのが司馬懿ということです。

 

このあたりは横山光輝三国志でも描かれています。

 

 

そもそも諸葛亮が第一次北伐を開始する直前、

司馬懿は謀反の疑いをかけられて官職を剥がれていました。

 

しかし司馬懿の謀反の話は、

敵の策略だった事を知った曹叡は、司馬懿に復帰してもらいます。

 

その際に司馬懿は孟達が裏切ろうとしている事を知り、

孟達を討ち取って、自体が大きくなることを未然に防いでいました。

 

そしてその足で長安へ向かい、街亭で馬謖を打ち破ったという流れです。

正史での司馬懿の記載

三国志正史では、

街亭の戦いについては以下のように書かれています。

 

趙雲を陽動作戦の部隊として長安に近い所のルートで侵攻させ、

夏侯楙に代わって長安の守りを任されていた曹真と趙雲が激突します。

 

 

そしてその間に諸葛亮は安定・天水・南安の三郡を寝返らせ、

街亭の決戦へとむかっていくところでした。

 

 

そこで多くの者達は街亭が重要な土地であるからこそ、

経験豊富な魏延や王平に守らせるのが一番良いというように提案していましたが、

 

諸葛亮がここで起用したのが可愛がっていた馬謖の抜擢でした。

 

 

馬謖に手柄を立てさせたかったのだと思いますが、

諸葛亮も内心の不安は隠し持っていました。

 

そこで経験豊富な王平を馬謖の副将としてつけて守らせることにしたわけです。

 

 

しかし馬謖は街亭に赴くと、

山のふもとである道筋を抑えずに山頂に陣を敷いています。

 

これには王平もかなり反対したようですが、王平の言葉に耳を傾けることはありませんでした。

 

その結果として街亭の戦いで惨敗を喫してしまいますが、

これを打ち破ったのは司馬懿ではなく張郃ちょうこうです。

 

 

ではその頃、司馬懿は何をしていたかというと、

裏切りを計画していた孟達を討ち取り、

 

その後、宛城に引き上げており、長安に向かってもいません。

ましてや街亭で馬謖を破ったというのは論外です。

街亭の戦いでの真実

「泣いて馬謖を斬る」という故事があるように、

馬謖の命令違反によって、北伐の失敗に繋がったのは事実ですが、

 

馬謖を破ったのは、司馬懿ではなく張郃です。

 

 

三国志演義で張郃から司馬懿に代わっているのは、

 

諸葛亮が張郃に負けたというよりも、

宿敵である司馬懿に負けたという形にしたかったのでしょうね。

 

 

そうすることで三国志演義の構成に重みをもたせ、

また物語に面白みを持たせることができると考えたのだと思います。