三国志演義で描かれる「博望坡の戦い」
「三顧の礼」によって迎えた諸葛亮が、
初陣を飾った戦いが「博望坡の戦い」になります。
曹操は袁紹やその遺児らを滅ぼした事で、
華北統一に成功しています。
そして中華統一へと歩むべく、
荊州・揚州方面へと進出をもくろんだわけです。
ちょうどこの頃に長らく荊州を治めてきた劉表がこの世を去り、
劉琮が跡を継いだばかりだったの状態でした。
曹操はまず荊州の入り口にあたる新野城に矛先を向けるのですが、
新野城を守っていたのが劉備だったのです。
もともと劉表から対曹操として任されたいた感じですかね。
この時に攻め込んできたのが曹操の重臣でもあった夏侯惇でした。
そして副将として于禁・李典がいた感じです。
しかし夏侯惇は諸葛亮の完璧な作戦の前に、
惨敗を喫してしまったのでした。
諸葛亮の完璧な作戦
横山光輝三国志(21巻41P・42P)より画像引用
まず手始めとして、
趙雲に夏侯惇を迎え撃たせます。
そして良い頃合いに趙雲に負けたふりをして撤退させ、
夏侯惇の追撃を誘いつつ、山林へおびき寄せたのでした。
ここで待ち受けていたのが、
劉封・関平による徹底的な「火攻め」で、
これに大きく混乱した夏侯惇らに対して、
関羽による火矢攻めが襲い掛かってきます。
あまりの劣勢に陥った夏侯惇は、
戦いどころではなくなったこともあり撤退を開始したわけです。
しかし諸葛亮は、
夏侯惇が撤退する進路まで完全に読み切っており、
既に大損害を被っていた夏侯惇ですが、ここで更なる張飛の襲撃にあってしまいます。
張飛は事前に伏兵として隠れていた感じですね。
これにより夏侯惇はほとんど全滅に近い被害をうけてしまったわけです。
このように完璧な勝利を収めた諸葛亮の作戦ですが、
実は作戦実行の段階で、
諸葛亮と関羽・張飛の間でトラブルが発生していたのです。
「三顧の礼」によって迎らえ、
劉備に「水魚の交わり」とまで言わせた諸葛亮に対して、
劉備と長らく苦楽を共にしてきた関羽と張飛はよく思っていませんでした。
だからこそ諸葛亮が考えたこの作戦を各将軍に説明していた際にも、
関羽と張飛は作戦に従う素振りは見せませんでした。
しかし劉備らに説得される形で、
「今回だけ!」という感じでに従ったのです。
しかしあまりにも見事に大勝利を収めた諸葛亮に対して、
きちんと謝罪をし、諸葛亮に対して信頼を寄せるようになっていきます。
これが三国志演義で描かれた、
諸葛亮のデビュー戦である博望坡の戦いの内容になりますね。
三国志正史で描かれる「博望坡の戦い」
三国志演義の「博望坡の戦い」は、上でも記載した通り、
諸葛亮のデビュー戦として、完璧なまでの勝利を得た戦いでしたが、
正史に記載される「博望坡の戦い」は内容が全然に違います。
「博望坡の戦い」の大前提として、
諸葛亮のデビュー戦どころか、
まだ諸葛亮が農耕雨読の生活をしていた頃の戦いであり、
そもそも劉備に迎えられてもいません。
そして正史では、博望坡の戦いまでの経過も違っています。
三国志演義では曹操から仕掛けた戦いのように描写されていますが、
正史では「魏志」李典伝と「蜀志」先主伝の二通りの記録が残っています。
もっと分かりやすく言うと、
「曹操側から記載された内容」と「劉備側から記載された内容」の二つがあるということです。
「魏志」李典伝と「蜀志」先主伝
まず「魏志」李典伝ですが、
結論から言うと、劉備が北方の葉県にまで侵入してきたことから、
曹操は夏侯惇らに防がせたことになっています。
三国志演義と真逆の状況ですね。
しかし「蜀志」先主伝では、
攻めてきた夏侯惇に対して、
劉表から命令を受けた劉備が迎え撃ったとされています。
また「蜀志」先主伝には次のことも記載されています。
劉備は放浪の末に、劉表の元に世話になっていたけれども、
多くの人材が劉備になびいていったようです。
これに脅威を感じたのが劉表で、
その一つの対策として劉備の軍事力を利用し、
曹操の侵攻に対処させたといった形です。
結局のところ、どちらがしかけたのかは分かりませんが、
両軍が対峙して始まった博望坡の戦いですが、
劉備が自陣に対して火を放ったのでした。
それを見た夏侯惇軍は、
「劉備陣営に何かトラブルが起きた!」
と考えた夏侯惇が攻めかかります。
ただあくまでこれは劉備の罠で、
追撃してきた夏侯惇を伏兵で叩いたのでした。
これが正史に残っている博望坡の戦いになります。
三国志演義では、この博望坡の戦いを
諸葛亮の華麗なデビュー戦として採用したという流れだったわけです。