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曹操の南方攻略と荊州情勢

官渡の戦いで袁紹を破り、
さらに袁尚・袁譚ら袁氏勢力を滅ぼしたことで、曹操は華北の大半を掌握しました。
こうして北方の憂いをほぼ取り除いた曹操は、
中華統一を目指して南方へと勢力を伸ばしていきます。
建安十三年(208年)、曹操は大軍を率いて荊州へ進軍しました。
当時の荊州は、後漢末でも有数の豊かな地域であり、
北方の戦乱を避けた多くの流民や名士が集まる安定地帯でした。
この荊州を治めていたのが劉表です。
しかし曹操軍の南下が始まった直後、劉表は病死してしまいます。
劉表死後の荊州内部対立
劉表の死後、荊州では後継問題が発生しました。
長男は劉琦、後継となったのは次男の劉琮です。
劉琮が後継となった背景には、蔡瑁・蒯越ら荊州有力者の支持がありました。
正史三国志では、蔡氏一族が劉琮を支持したことが記されていますが、
演義のような「陰謀劇」的描写はかなり脚色されています。
そして曹操が荊州へと南下してくると、蒯越・韓嵩らが降伏を勧めました。
結果として劉琮は曹操に降伏し、荊州北部はほぼ戦わずして曹操の支配下となります。
劉備の南走
この時に繁昌付近に駐屯していた劉備でしたが、
曹操軍接近と劉琮降伏を知った劉備は南方へと撤退します。
劉備は江陵を目指して南下しましたが、
劉備を慕った民衆が十数万人あまりが同行したことが「蜀志」先主伝に書かれています。
しかし多くの民衆らを引き連れた事で行軍速度は極端に低下し、
一日に十数里(5km前後)しか進めない状態となったことを心配したある者が、
「急いで江陵へ向かうべきです。民衆は多くとも武装した兵は少なく、もし曹操軍が到達すれば防ぎきれません。」
と劉備に進言します。
しかし劉備は、
「大業を成し遂げるには、人こそ根本である。
今、人々が私を慕って従ってきているのに、どうして見捨てることができようか」
と答え、民衆を置き去りにすることを拒みました。
長坂(長坂坡)の戦い
曹操は精鋭五千騎を率いて急追し、長坂で劉備軍に追いつきます。
これを率いたのが曹純率いる虎豹騎(精鋭騎馬軍団)でした。
そしてその行軍速度は、
一日一夜に三百余里ほどで、曹操軍の猛烈な追撃が伝わりますね。
この戦いで劉備軍は大混乱に陥りました。
荷車や物資は失われ、多くの民衆も離散します。
劉備自身もわずかな騎兵とともに逃走することになり、
この時に劉備が妻子を置き去りにしたことが記録に残されています。
趙雲の活躍

長坂で特に名を上げたのが趙雲です。
趙雲は戦場で甘夫人と阿斗(後の劉禅)を保護し、無事に劉備の元へ帰還しました。
演義のような、
- 一騎当千で曹操軍を蹴散らす
- 青釭剣を奪う
- 数十万軍を突破する
といった描写は創作ですが、
趙雲が危険な戦場で主君の妻子を救出したこと自体は正史に基づく事実です。
なお、劉備の娘たちが曹操軍に捕らえられたことも正史に記録されています。
しかし、その後の扱いについては史料に記載がありません。
張飛の活躍
長坂での撤退戦でもう一人重要な役割を果たしたのが張飛です。
「蜀志」張飛伝によれば、張飛はわずかな兵で橋を守り、
「身是張益徳也、可来共決死!」
(我こそ張益徳である。来た者は決死の戦いをせよ!)
と大喝しました。
これにより曹操軍は進軍をためらい、劉備は撤退時間を稼ぐことに成功します。
演義では超人的武勇として描かれていますが、
正史でも張飛の威圧感と猛将ぶりは非常に高く評価されています。
江夏への逃走と劉琦合流
長坂敗北後、劉備は関羽の水軍と合流し、江夏へ逃れました。
江夏には劉表の長男である劉琦がおり、劉備と協力関係にありました。
劉琦は劉琮とは対立関係にあったため、結果的に劉備陣営へ接近する形となります。
しかし劉備軍単独では、もはや曹操軍に対抗できる状態ではありませんでした。
一方、江東の孫権陣営でも大きな議論が起きていました。
曹操は荊州をほぼ無血で獲得し、さらに劉備を敗走させています。
このため江東でも、
- 曹操に降伏すべき(降伏派の中心は張昭)
- 徹底抗戦すべき(抗戦派の中心は魯粛・周瑜)
という二派に分かれていました。
魯粛・周瑜の主戦論
魯粛は孫権に対し、
「臣下は主君が変わっても仕えることはできる。しかし将軍(孫権)はそうはいかない」
と説得したと「呉志」魯粛伝にあります。
また周瑜は、
- 曹操軍は長距離遠征で疲弊している
- 北方兵は水戦に不慣れ
- 荊州兵も完全には曹操に心服していない
- 南方では疫病の危険がある
と分析し、抗戦を主張しました。
孫権は最終的に主戦論を採用します。
ここで曹操に対抗するため、劉備と孫権の同盟が成立しました。
孫劉同盟成立
この時、劉備側からは諸葛亮が孫権の元へ赴いています。
ただし演義のような「舌戦群儒」の劇的描写は創作色が強く、正史ではそこまで詳細には描かれていません。
正史で確認できるのは、
- 魯粛が劉備との同盟を推進したこと
- 諸葛亮が外交交渉を行ったこと
孫権が最終的に抗戦を決断したこと
です。
命運を分けた赤壁の戦い

こうして曹操軍と孫劉連合軍は赤壁で対峙します。
曹操軍の兵力は、演義などの影響から「八十万」「百万」とも語られる事もありますが、
これは明らかな誇張で、実数は20万人前後と推定されています。
一方、孫劉連合軍は数万規模だったと考えられています。
そしてこの戦いは連合軍の勝利に終わるわけですが、「呉志」周瑜伝・「魏志」武帝紀などによれば、
黄蓋が降伏を装って火攻めを行ったことは正史にも記録されています。
つまり、
- 黄蓋の偽装降伏
- 火攻めによる船団炎上
は史実性が高い出来事です。
ただし、
- 鳳雛(龐統)の連環の計
- 諸葛亮の東南の風
周瑜・黄蓋の苦肉計
などは演義で脚色された内容になります。
また正史では、曹操軍敗北の要因として疫病の流行も強調されています。
「魏志」武帝紀には、疫病が流行したため軍を引いたという趣旨の記録があります。
つまり赤壁は、
- 火攻め
- 水戦不慣れ
- 長距離遠征
- 疫病
など複数要因が重なった敗北だったのでしょう。
赤壁の戦いは曹操軍にとって致命的壊滅戦というよりは、
単純に南方統一に失敗した戦いとして理解する方が自然でしょう。
しかしこの戦いによって、曹操は長江以南を即座に制圧できなくなった事も事実であり、
一方の孫権は江東支配を維持し、劉備は再起の機会を得たことで、
後の魏・蜀・呉三国鼎立へ繋がる大きな転換点となっていくこととなります。



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