苦肉の計(苦肉の策)
「苦肉の計」とは三国志演義に登場する計略で、
都督であった周瑜と呉の将軍である黄蓋によって使われた計略になります。
「人は自分を故意に傷つけることはない!」
という人間の心理を利用したもので、
「その中であえて自分自身を傷つけて、
相手を騙して信用させる」といった計略ですね。
実はこの言葉は三国志以前から存在していた言葉で、
当時見本とされていた「兵法三十六計」の中で、
第三十四計にあたる戦術に「苦肉計」として記載されているものです。
これと区別するために、三国志演義に記載されている「苦肉の計」を、
「苦肉の策」と呼ぶことも多いですね。
またどちらも現在の意味としては、
「苦しまぎれに考えた作戦・手段」
といった意味で使われていることが多く、
「苦肉の計」よりも「苦肉の策」の言葉の方で使われている事が多いかもしれません。
基本的にはどちらも同じ意味と思ってもらってよいかと思います。
周瑜と黄蓋による苦肉の計(三国志演義)
横山光輝三国志(25巻86~88P)画像引用
曹操が劉琮を降し、荊州支配に成功すると、
勢いそのままで劉備を追撃して追い詰めていきます。
そこで劉備は孫権と同盟を結んで、
曹操に対抗する手段を選択したわけですが、
真っ向からぶつかっても勝利することができないと考えた黄蓋は、
周瑜に「苦肉の計」の提案を投げかけます。
呉の功労者であった黄蓋を痛めつける事に躊躇した周瑜でしたが、
黄蓋の意志が固い事を知ると、「苦肉の計」にとりかかります。
大都督として呉軍を指揮する立場にあった周瑜に対して、
「黄蓋は周瑜の命令には従えない!」と反抗します。
そこで命令に従わない黄蓋を、皆の前で棒叩きの刑に処したわけですが、
黄蓋の背中の皮は剥げ、血がしたたり落ち、それは酷い有様でした。
黄蓋自身もあまりの激痛から何度も気を失ったといいます。
もちろんこれは周瑜と黄蓋が事前に話し合った出来レースなわけですが、
敵味方に信じさせるためにも、周瑜も全力だったのです。
周瑜の黄蓋に対する処置に仲間からも同情の声が飛んでおり、
偽りの降伏をしていた蔡和・蔡中なんかは、すっかり信じてしまったわけでして・・・
この事実をそのまま曹操へと報告したのです。
もちろん周瑜自身も蔡和・蔡中が、偽の降伏をしていた事は見破っており、
曹操への伝言役として利用したわけですね。
黄蓋の降伏&赤壁の戦い
横山光輝三国志(26巻100P)画像引用
黄蓋は痛みに苦しむ中で、曹操に降伏する旨の手紙を書くと、
曹操の元へ手紙を届けてくれるように闞沢に託します。
手紙を受け取った曹操も優れた兵法家であり、
「自分を騙そうとしてるのではないか?」と闞沢を疑います。
しかし闞沢の見事な論説により曹操は信じるようになっていきます。
最終的に信じる決め手となったのは、
呉に忍び込ませていた蔡和・蔡中からの報告だったのです。
黄蓋の降伏を完全に信じた曹操は、
敗北への階段をかけあがっていくことになるのでした。
そして東南の風が吹いたタイミングで、
黄蓋は枯草を大量に積んだ船に乗ってそのまま曹操の船団へと突撃させ、
曹操率いる大船団を火の海にして沈めてしまいます。
曹操は命からがら撤退することに成功するものの、
大被害を受けた戦いになったのでした。
これにより曹操・孫権・劉備による三国時代に、
大きく舵をとっていくことになります。