陶弘景は六朝(南朝)時代の人物になります。

 

ちなみに六朝とは三国時代の孫呉から、

東晋・宋・斉・梁・陳の六つの王朝を示しており、

 

陶弘景はこの中のの人物であり、茅山派(道教)の開祖としても知られており、

多くの著書を残した人物でもあります。

 

 

今回はそんな陶弘景の書物の中で、

多くの伝説的な刀剣についての記録が残る「古今刀剣録」について見ていきたいと思います。

「古今刀剣録」の構成

「古今刀剣録」では次のような順番で構成されています。

 

1、各王朝の君主(皇帝・王など)の刀剣について

2、五胡十六国時代の君主の刀剣について

3、呉の人物の刀剣について

4、蜀の人物の刀剣について

5、魏の人物の刀剣について

 

 

ちなみに曹操・劉備・孫権などの刀剣については、1の各王朝の所で紹介されていますね。

 

またこの中には袁紹や董卓の刀剣も登場するのですが、

陳寿の「三国志」と同様に、5の魏の人物の所で紹介されている感じです。

※「魏志(三国志)」の第六巻に袁紹と董卓についての列伝が書かれてあります。

 

 

また魏・呉・蜀の人物の刀剣についても個別に確保して記載しているのは、

完全に贔屓的に設けられている感じがします。

 

 

後は補足する点としては、

陳寿の「三国志」では「本記(正統王朝)」を魏としたのと同様に、

 

「古今刀剣録」でも魏武帝(曹操)といったような呼び方がされており、

劉備を先主と呼び、孫権を呉王(呉主/権)と呼んでる感じですね。

 

ちなみに陳寿の三国志では呉の歴代皇帝(権・亮・休・晧)は諱のみで呼ばれているのですが、

まさにここでもそれが反映されています。

 

 

ただはっきりと言ってしまうと、内容は創作的な感じなので、

楽しみながら見るような逸話となってます。

 

色々とありえない矛盾的な話も多数入っているので、

当時に存在していた民間伝承的な話を取り入れた感じなのかもしれません。

孫権の刀剣「大呉」

吳王孫権、以黃武五年、採武昌銅鐵、

作千口劍、萬口刀、各長三尺九寸。

刀頭方、皆是南銅越炭作之、文曰大吳、小篆書。

「黄武五年(226年)、孫権は武昌にて鉄と銅を採掘させ、

三尺九寸の剣を千振り、刀を一万振り作らせた。

 

そしてその刀剣は柄頭が四角の形をしており、

柄頭の部分は全て南方産の銅と越産の墨で作られたのであった。

 

そしてこれら全ての刀剣に大呉』と銘が刻まれていたわけである。」

天下三分の一端を担った孫権(仲謀)

孫亮の刀剣「流光」&孫晧の刀剣「皇帝呉王」

孫亮、以建興二年、鑄一劍、文曰流光、小篆書。

孫晧、以建衡元年、鑄一劍、文曰皇帝吳王、小篆書。

「二代目皇帝である孫亮は、

建興二年(253年)に『流光』と刻んだ剣を作り、

 

四代目皇帝である孫晧は、

建衡元年(269年)に皇帝呉王』と刻んだ剣を作っている。」

 

軽くこの話にツッコミをいれるとすれば、

皇帝孫晧ならば分かりますが、(呉)皇帝に呉王は意味不明ですね。

 

言いたい事は一応伝わりますが・・・

 

 

またこの三人(孫権・孫亮・孫晧)は全員皇帝ですし、

各王朝の君主(皇帝・王など)の刀剣についての所に記載が見られる三名になります。

孫皓 -暴虐の限りを尽くした呉のラストエンペラー

周瑜の刀剣「韓信の剣」「盪寇将軍」

周瑜の刀剣については二つ紹介する話が載っています。

 

一つ目の『盪寇将軍』という刀については、

呉の人物の所に記載があるのですが、

 

もう一つの韓信の剣』についての話が、

上で述べた「大呉」の後に続けるように紹介されています。

 

おそらく孫権が周瑜に授けた剣なので、続けた形で記載を残したのでしょうね。

【韓信の剣について】

又赤烏年中、有人得淮陰侯韓信劍、帝以賜周瑜。

「赤鳥年間(238年~251年)に、

淮陰侯である『韓信の剣』が発見され、孫権はその剣を周瑜に与えた。」

 

という意味になりますが、

まぁ色々とツッコミどころしかない逸話ですね。

 

そもそもの話として、

周瑜は建安15年12月(211年1月)に亡くなっていますから・・・

 

とりあえずこれ以上言えることはないですね。

【蕩寇將軍の刀について】

周瑜作南郡太守、造一刀、背上有「蕩寇將軍」字、八分書。

「周瑜が南郡太守となり、一振りの刀を作り、

背の上に『盪寇将軍』という銘を八分体で刻んだ。」

 

という意味ですが、「韓信の剣」同様に、

三国志にそれなりに詳しい方ならまず疑問に思う記載があります。

 

 

周瑜は南郡太守には任じられている事は間違いないですが、

「盪寇将軍」になんて任じられていません。

 

周瑜が任じられていたのは偏将軍ですから、

そんな周瑜が自らと関係がない「盪寇将軍」を刀に掘ること自体がおかしいわけです。

 

 

ちなみに周瑜は、左都督として赤壁の戦いで勝利に導いた人物ですが、

 

この時に右都督として活躍した人物に、

孫堅・孫策・孫権と孫家三代に仕えた程普がいたりします。

 

 

このように周瑜と似たような立場にあった程普ですが、

周瑜亡き後の南郡太守に任じられ、盪寇将軍にも任命されています。

 

 

この事からもおそらく周瑜と程普についての事がごちゃ混ぜになり、

 

民間伝承かどうかは分かりませんが、

おかしな形で後世に伝わった可能性があると思います。

 

 

ちなみに「盪寇」とは、てきとうす」と書いて、

「敵を洗い清める」つまり「敵を滅する」というような意味があったりするのは余談です。

蒋欽の刀剣「司馬」

 
蔣欽拜列郡司馬、造一刀、文曰司馬、隸書。

「蒋欽は列郡司馬に任じられた際に、一振りの刀を作り、

『司馬』という銘を隷書で刻んだ。」

 

ここも一応軽く触れておくと、蒋欽は列郡司馬になった記録はありません。

ただ別部司馬になった事はあるので、普通に名称を間違えたと見るべきでしょうね。

周泰の刀剣「幼平」

周幼平(周泰)擊曹公勝、拜平虜將軍、因造一刀、銘背曰幼平。

曹操に勝利した周泰は、平慮将軍に任じられた事をきっかけに、

一振りの刀を作りあげ、その背に『幼平』と自らのあざなを刻んだ。

体中に刻まれた傷跡は男の勲章「周泰」

董襲の刀剣「断蒙刀」

董元代(董襲)少果勇、自打鐵作一刀。

後討黃祖於蒙沖河、元成引刀斷沖頭為二流、拜大司馬、號斷蒙刀。

「董襲は若かりし頃から勇猛果敢であり、自ら鉄を打って一振りの刀を作った。

 

そして黄祖討伐の際に、蒙衝河のほとりに向かってその刀を振るうと、

流れが二つに割れたのであった。

 

この功績から董襲は大司馬に任じられ、

その刀は『断蒙刀』と呼ばれたのだった。」

 

 

黄祖討伐で董襲と凌統が活躍した話は正史に残っていますが、

この当時の孫権が大司馬なんて官職に任じられるわけがないので論外ですね。

 

逸話にある「断蒙刀」の破壊力的にもそうですが・・・

 

 

ただ黄祖が流れないように蒙衝船を繋いでいた綱を、

 

董襲自ら決死の覚悟で切断すると、

蒙衝船が勝手に流した事で勝利に導いた話は正史にも残ってたりします。

 

 

逸話的には川を切断するとまではいきませんが、

実際の逸話から多少盛られるようになってしまった話かなと想像しますね。

 

それでも大司馬は完全に余計な言葉ではありますが・・・

潘璋の刀剣「固陵」

潘文珪(潘璋)拜偏將軍、為擒關羽、拜固陵太守、

因造一刀、銘曰固陵。

「潘璋が関羽を捕らえた功績から偏将軍・固陵太守に任じられた際に、

一振りの刀を作り、『固陵』と銘を刻んだ。」

朱治の刀剣「安国」

朱君理(朱治)少受徵討、黃武中、累功拜安國將軍、

作一佩刀、文曰安國。

「朱治が黄武年間(222年~229年)に、

度重なる功績を積み上げ、安国将軍に任じられた。

 

この時に一振りの刀を造り、『安国』と銘を刻んだ。」

 

ただ朱治が安国将軍に任じられたのは黄武二年(223年)と分かっているので、

この話が本当だとしたら、223年の話になりますね。

 

今回は古今刀剣録に記載されている呉の人物に絞り、

それらの人物の刀剣についてのお話でした。