「偽撃転殺の計」&「虚誘掩殺の計」
今回紹介する「偽撃転殺の計」「虚誘掩殺の計」の二つは、
いわば表裏一体の計略であります。
どちらも曹操と張繍が戦った際に使われた計略ですが、
まず曹操が張繍に対して仕掛けたのが「偽撃転殺の計」、
そして曹操の「偽撃転殺の計」の返し技として張繍が仕掛けたのが、
「虚誘掩殺の計」になります。
どちらも大げさな名前がついた計略ですが、
簡単に言ってしまうと、戦いに勝つ為に騙しあいをしたというだけの話になります。
曹操は宛城を攻略する為に、
張繍は曹操を倒す為に実行された計略ということですね。
ただ「兵法三十六計」という、
三国時代より後の時代(五世紀)の将軍である檀道済という人物が著したものがあるのですが、
この「兵法三十六計」が「三国志演義」を制作される上で、
色々と参考にされたりもしていますね。
そして「偽撃転殺の計」「虚誘掩殺の計」のどちらも、
兵法三十六計を応用して作られた戦略であったのは案外知られていません。
ちなみに赤壁の戦いで活躍した黄蓋の「苦肉の計(苦肉の策)」も、
兵法三十六計の「苦肉計」から取り入れられた計略でもあったりします。
偽撃転殺の計
曹操は張繍が統治する宛城へと攻め込み、
勢いそのままで宛城の包囲に成功します。
この時に張繍は不安要素を抱えており、
宛城の東門が修理中だったのです。
もちろんそれを見過ごす曹操ではなく、この東門から城内に侵入することを検討!!
そこで曹操はまず東門と真逆にあたる西門を、
三日三晩攻撃し続けたのでした。
もちろん曹操の真の目的は東門の攻撃でしたので、
西門に城兵が集まるように仕向けて」いたわけですね。
そして城兵が西門に気を取られていると判断した曹操は、
半数の兵士にはそのまま西門を攻撃させつつ、
残りの半数を密かに修理中であった東門へと移動させたのでした。
後はほとんど城兵がいないであろう東門へと攻撃を開始したのですが、
この計略を「偽撃転殺の計」と呼びます。
兵法三十六計/勝戦計(声東撃西)
曹操の「偽撃転殺の計」は、
「兵法三十六計」の中にある計略であり、
その中の「勝戦計(声東撃西)」を曹操なりに応用した計略になります。
ちなみに「兵法三十六計」は、以下の六つから構成されています。
【兵法三十六計】
- 勝戦計(主導権を握っている側がよく使う計略)
- 敵戦計(戦況的に優勢な側がよく使う計略)
- 攻戦計(一進一退の攻防が繰り広げられている時に使う計略)
- 混戦計(相手が優勢な場合によく使う計略)
- 併戦計(外交関係の中で優位に展開する為の計略)
- 敗戦計(戦況的に劣勢な側がよく使う計略)
勝戦計(声東撃西)を大雑把に説明すると、
「味方の陽動によって相手を翻弄し、
相手の防御態勢を崩してから攻略に取り掛かる」
といった計略であり、
まさに曹操の「偽撃転殺の計」は、
「兵法三十六計」の中にある「勝戦計(声東撃西)」を応用した計略でもあったわけです。
虚誘掩殺の計
曹操の「偽撃転殺の計」により東門はあっさりと突破され、
曹操軍は城内へとなだれ込みます。
「作戦は成功した!」と思ったのも束の間、
侵入した曹操軍に向かって大量の矢が雨嵐のように降りかかってきたのでした。
どういうことかというと、
曹操は撤退が容易にできない宛城の中(死地)に、
まんまとおびき寄せられたということになるわけです。
これにより曹操軍は大被害を被ってしまいます。
つまり曹操の「偽撃転殺の計」は、
完全に張繍によって読まれていたということですね。
まぁ作戦を読み切ったのは張繍ではなく、
実際は張繍に仕えていた賈詡というのが正確な所ではあります。
ちなみに曹操の「偽撃転殺の計」の裏を読んだこの計略を、
「虚誘掩殺の計」と呼ばれます。
兵法三十六計/併戦計(上屋抽梯)
「虚誘掩殺の計」も「偽撃転殺の計」同様に、
「兵法三十六計」の中にある計略であり、
その中の「併戦計(上屋抽梯)」を
賈詡が応用した計略になります。
ちなみに「上屋抽梯」は、
「屋に上げて、梯を抽す。」と読み直すことができますが、
もう少しわかりやすく説明すると、
「相手を屋根に上らせた後に、
梯子を外してしまえば相手は何もできない。
無理に屋根から飛び降りたとしても怪我するよね。」
っていう感じの計略になるわけです。
宛城の戦いでいうところの「屋根という死地」が、
東門から入った先の城内であり、
「知らず知らずのうちに、
曹操は梯子を上らされていた」というわけです。
とどのつまり、「偽撃転殺の計」があったからこそ、
はじめて「虚誘掩殺の計」が誕生した計略であったと言ってよいかと思いますね。