薪拾いの少女(夏侯氏)と張飛の出会い

張飛が夏侯氏と出会ったのは、

建安五年と「魏志」夏侯淵伝に記載されています。

 

もう少し正確に言うと、

夏侯淵伝の中に「魏略」の注釈が書かれている感じですかね。

初、建安五年、時霸従妹年十三四、在本郡、出行樵採、為張飛所得。

飛知其良家女、遂以為妻、産息女、為劉禅皇后。

故淵之初亡、飛妻請而葬之。

及霸入蜀、禅与相見、釈之曰「卿父自遇害於行間耳、非我先人之手刃也。」

指其兒子以示之曰「此夏侯氏之甥也。」厚加爵寵。

「建安五年」と言えば、西暦200年の話で、

この時に13歳、もしくは14歳程度であった夏侯氏は、本郡(本籍)で薪拾いをしていたといいます。

 

 

夏侯氏は夏侯淵の姪ということが分かっているので、

本籍は豫州沛国譙県ということになりますね。

 

そんな少女と出会った張飛ですが、

「普通に夏侯氏を捕らえた」といいます。

 

夏侯氏からしたら知らないおじさんに捕まるわけですから、

恐怖以外の何物でもないわけです。

 

 

またそれだけでなく、その少女が名門夏侯氏の娘だと知った張飛は、

「喜んで妻とした」と書かれてあります。改めて恐怖でしかないですね。

 

しかしこれが張飛と夏侯氏の出会い(馴れ初め)だったのです。

夏侯氏(張飛の妻)=夏侯淵の弟の娘

夏侯氏に関する記述は、上でも記載した通り、

魏志「夏侯淵伝」に付け加えられている「魏略」の逸話として載っています。

 

 

その中に兗州と豫州が飢饉に見舞われ、

 

「夏侯淵は自分の幼い子を捨ててまで、

亡くなった弟の遺児である娘を養育した」という逸話が残っています。

 

そしてその娘こそ夏侯氏であり、夏侯淵の姪にあたる女性になります。

 

 

兗州と豫州が飢饉に見舞われたのは、

曹操が徐州討伐へ乗り出した際に、呂布・張邈・陳宮らが反乱を起こしたタイミングであり、

 

その年は194年になりますね。

 

 

曹操はイナゴの大量発生などによる飢饉のせいで、

食糧調達に非常にてこずっていましたし、

 

そのことが原因で呂布討伐もできずにいたぐらいですから、

そういった意味でも194年しかありえません。

 

 

まぁ曹操の側近の一人であった夏侯淵が、

自分の子供をもう一人ぐらいは育てれるとは思うのですが、

 

まぁそれができなかったということは、本当に危機的状況だったのでしょう。

 

 

現在の感覚で言うと、自分の実子を捨ててまで兄弟の子供を育てるというのは、

非常に考えにくいことかもしれませんが、

 

この時代は「家の存続」などが非常に大事にされていましたし、

儒教的観点からも当たり前だとされていたことでもあったのです。

 

 

「親より先に死ぬのは親不孝」という言葉がありますが、

この時代は「親の為なら子は代わりに死ぬべきだ!」というような思想が当たり前でした。

 

「子供は新たに産めばいいけれど、

子供は親を産むことはできない」といった考え方ですね。

張飛と夏侯氏の娘&夏侯淵の死

張飛と夏侯氏の間には、張苞・張紹の二人の息子と

二人の娘(敬哀皇后と張皇后)が誕生します。

 

 

「張苞と張紹はよく知ってる」という人も多いかもしれませんが。

二人の娘も名前こそ伝わってないものの有名な人物になります。

 

何故なら二人とも、蜀漢皇帝であった劉禅に嫁いでいるからですね。

 

 

先に劉禅に嫁いだのが姉の敬哀皇后で、

 

敬哀皇后が237年6月に亡くなると、

その翌年に皇后になったのが妹の張皇后だったわけです。

 

 

またかつての「育ての親」であった夏侯淵が、

定軍山の戦いで戦死すると、「夏侯氏は非常に悲しんだ」といいます。

 

そして夏侯氏は、

「夏侯淵の遺体を引き取って埋葬したい!」

と願い出たのでした。

 

 

ただ夏侯淵の遺体を成都まで持ち帰るというのは当時の戦況下では考えにくいので、

首だけでも持って帰ってきたのでしょうか?

 

当時の劉備は漢中争奪戦の中心にいたわけですし、

「さすがにありえない」とは個人的に思っています。

 

 

総大将の首を持ち帰るというのは手柄の証明の為であり、

夏侯淵を斬ったのは黄忠なので、それだけでもう十分なわけです。

 

 

あくまで表向き上の言葉だったのかは不明ですが、

 

「夏侯氏が夏侯淵の遺体を埋葬した」という記載もないですし、

「普通に埋葬はできなかった」と考えるのが自然だと思います。

夏侯覇の帰順

曹叡が亡くなり曹芳が跡目を継ぐと、

後を託された曹爽と司馬懿の関係は悪化していきます。

 

 

そして曹爽の専横政治が行われると、

司馬懿はクーデターを起こし、曹爽一族は処刑されてしまいます。

 

また夏侯尚の息子であった夏侯玄に代わって、

夏侯覇との関係が宜しくなかった郭淮が征西将軍に任命されます。

 

 

司馬懿の専横状態になっている現状に、

 

「自分もいずれ殺されてしまうのではないか!?」

と夏侯覇は危機感にさいなまれ、

夏侯覇は親の仇でもあった蜀漢を頼ったのでした。

 

 

この点だけで見ても、

どれだけ夏侯覇が追い込まれていたかが分かる逸話ですよね。

 

そして夏侯覇が蜀漢へ亡命した理由としては、

夏侯氏の存在があったのは言うまでもありません。

 

 

劉禅は夏侯氏との関係もあったことから、

夏侯覇を歓迎すると共に、父親である夏侯淵についての事も謝罪したといいます。

 

そして夏侯覇は劉禅の元で姜維と共に北伐で活躍し、

最終的に車騎将軍にまで出世しています。

夏侯氏にまつわる疑問

最期に張飛の妻である夏侯氏に対して、

私自身が疑問に感じた点を見ていきたいと思います。

 

この時代は女性の名前や素性が伝わりにくい世の中ではあったのも事実なので、

夏侯氏の「名」が今に伝わってない事には全然に驚きません。

 

 

しかし最初に述べた事ではありますが、

夏侯淵と言えば、曹操の旗揚げ時から支えた重臣の一人です。

 

そんな夏侯淵が自分の子供を捨ててまで育てた夏侯氏に、

薪拾いなんてさせることが不自然な話です。

 

自分の子供を捨ててまで大事に育てた姪(弟の娘)なわけですよ。

 

 

ただ百歩譲って薪拾いにでかけたとしましょう。

 

三国時代という殺伐とした世の中で護衛もつけずに、

13歳~14歳程度の少女を一人で薪拾いさせることも絶対におかしすぎます。

 

 

そしてあろうことか

「夏侯淵が行方不明になった姪を探した。」

という記述すら残っていません。

 

普通の感覚なら探すでしょうし、

その点までセットとして記録に残す方が自然です。

 

 

後は夏侯氏についての話が三国志の注釈に加えられたことからも分かるように、

魏に関する記録をまとめた「魏略」のみの情報ということです。

 

 

「三国志」の著者である陳寿は、かつて劉禅に仕えていた人物です。

 

蜀漢が滅亡してからは魏・晋に仕えることとなりますが、

陳寿は正史の中で夏侯氏について全く触れていません。

 

これが何よりもおかしい最大の疑問になります。

蜀漢の功臣であった張飛の妻であり、劉禅に二人の娘が嫁いでいるにも関わらずです。

 

なんせ陳寿は劉備を「先主」、劉禅を「後主」と記載するほど、

蜀漢に対して愛着を持っていた人物としても知られています。

 

 

これらの点を考えると、張飛が結婚していた話は、

実際に息子や娘がいるわけですから間違いないと思いますが、

 

「薪拾いをしてた少女がたまたま夏侯淵の姪だった!」

という話はどう考えても出来すぎてます。

 

 

またこの話が「魏略」でのみ詳しく記載されている点を考えると、

夏侯氏の逸話などは全て魏の人達が作った話であるかもしれないという疑惑さえ生まれます。

 

ただそれを証明するような証拠もありませんし、

あくまで残されている資料からの可能性の一つになりますね。