「王佐の才」荀彧
荀彧が曹操に仕えてからというもの、
曹操は飛躍的というレベルで勢力拡大に成功しています。
献帝擁立を強く勧めたのも荀彧でしたし、
多くの優れた人物を曹操に紹介したのもまた荀彧でした。
つまり曹操の向かうべく大きな道筋を示した人物だったといえるでしょう。
荀彧が曹操に推薦した者達の代表者としては、
荀攸・鍾繇・陳羣・司馬懿・郗慮・華歆・王朗・荀悦・杜襲・辛毗・趙儼が挙げられますが、
そしてこれらの人物以外に、曹操に推薦された人物に戯志才がいます。
ただこららの人物は荀彧が推薦した人物の一部だと言われており、
荀彧から推薦された者達は力を発揮し、大成しなかった者がいない程だったといいます。
ただ早世した者であったり、
地方での任務をこなしていた際に命を落とした者を除いてではありますが・・・
「荀彧別伝」
上記の荀彧の人材推薦された人物は、
正史に注釈を加えられている「荀彧別伝」の内容ですが、
確実に荀彧が推薦したものとなると数が減ってしまうのは一応の補足です。
例えば趙儼に関しては、
「自ら曹操に帰順した」と趙儼伝に書いてありますから、
それだけを見ると普通に矛盾してることになったりと・・・
ただ「荀彧別伝」での矛盾があるからと「嘘」という話ではなく、
曹操がその時々で必要としている人物を推薦していたのは事実でしょう。
だからこそ曹操は、荀彧に絶対的な信頼を置いていたわけです。
まぁこの点を深堀していくと完全に話がそれていってしまい、
戯志才と全く関係ない所へ行ってしまいますので、ここでの議論は控えたいと思います。
参謀的立ち位置で推薦された戯志才
上での述べたように荀彧は多くの優れた人物を曹操に紹介しています。
そんな中で荀彧は、
「策略や策謀に優れた人物」として戯志才を薦めています。
実際に戯志才と話してみた曹操は大変に気に入り、
「相談役」の立場で戯志才に多くの事を相談していたといいます。
しかし戯志才は惜しくも早世してしまったことで、
後世になんの功績も残せずに亡くなってしまったのでした。
ただ何度も言いますが、荀彧の人を見る目は確かなのは間違いありません。
だからこそなんの功績も残せていないにも関わらず、
今に名前が伝わっているわけですから・・・
もしも戯志才が長生きとは言わないまでも、
後十年だけでも長生きしていれば、
曹操政権で大きな功績を残していた可能性が高いでしょう。
その何よりの証明となるものは、
荀彧が推薦した他の者達が大きく証明してくれていますからね。
郭嘉 -戯志才の後継者-
曹操は何かあるごとに荀彧に相談していました。
そしてある時に曹操は次のように荀彧に語ります。
「荀彧殿に代わって、私に策略を授けることができる人物はいるか!?」
その際に荀彧が挙げた人物は、荀攸と鍾繇であったのは知られた話です。
しかしそれ以前に早くも荀彧に推薦されていたのが、戯志才でもありました。
戯志才が早世してしまうと、
「戯志才殿が亡くなってしまった。
そのせいで共に策謀を巡らす者がいなくなってしまった。
戯志才殿に匹敵するような人物は他におるだろうか?」
と荀彧に尋ねると、
戯志才に代わる人材として新たに推薦したのが郭嘉だったのでした。
結果的に郭嘉も早世してしまった人物ではありますが、
曹操も郭嘉を絶賛しており、
「私の心の奥底を理解できるのは郭嘉殿だけである。」
といった逸話が残っています。
またこれは有名な話ですが、
劉備・孫権連合軍に敗れてしまった赤壁の戦いでは、
「もしも郭嘉殿が生きていたならば、敗北する事もなかったであろう。」
と曹操が嘆いた逸話が残されています。
もしも戯志才と郭嘉の双方が長生きしていたならば、
曹操はあっさりと天下統一までもっていけた可能性もあったのかもしれません。
ただ赤壁の戦いは疫病の発生により撤退した可能性も高いですので、
疫病の発生が曹操側の敗因の原因だとしたら、
戯志才や郭嘉がいたとしても結果は変わらなかったかもしれません。
まぁそのあたりはもしもの話なので、私達は想像して楽しむしかありませんが、
それでも戯志才の早世は、残念の一言でしかないのは間違いないでしょう。