徐州の混乱&陳登(元龍)
陳登は徐州下邳国淮浦県の出身であり、
誠実で思慮深く、執筆能力にも優れている人物で、
若くして東陽県長を任され、
民衆の為の政治を行った事で民衆からも大いに慕われていたといいます。
陳登の能力が優れていると判断した陶謙は、陳登を典農校尉に任じ、
陳登もまた陶謙の期待にも見事に応え、徐州の農業事情は大幅に改善されていきました。
農業事情が大幅に改善された裏側に、
「灌漑事業に力を入れた」というのは外してはいけない要因ですね。
そんな中で陶謙が病死してしまい、その流れの中で劉備に仕えています。
しかし劉備の居城が呂布の裏切りにより奪われてしまうと、
再び呂布に仕える事になったのでした。
しかし陳登は呂布を好きになれず、父である陳珪と共に、呂布が滅ぶように罠をしかけていくのでした。
袁術と絶縁させた陳珪・陳登親子
袁術が曹操に対抗する為に、呂布に同盟の話をもちかけてきたのですが、
呂布は袁術の話に耳を傾けようとします。
しかしこれを聞いた陳珪・陳登親子は呂布がさらに力をつける事をおそれ、
「縁組を成立させてはいけない!」と判断します。
そこで陳珪・陳登は、
「皇帝を名乗った逆賊の袁術と組めば、
御自身も天下の逆賊となってしまうのではないですか!?」
と呂布にもっともらしい助言で説いたのでした。
呂布はこの助言に対して納得し、
袁術との縁組を断り、同盟を結ぶことを避けたのでした。
またそれだけでなく、袁術が送ってきた使者を切り捨て曹操の元へ送っています。
この呂布の行動に対して袁術は大いに怒り、呂布の領土へ攻めたのですが、
この時ばかりは陳珪・陳登親子も呂布に協力していますね。
呂布が逆賊ならば、袁術も逆賊なわけでして・・・
陳珪は袁術軍の将軍であった楊奉・韓暹を裏切らせる事に成功し、
呂布軍の大勝で決着したのでした。
これにより呂布からの信頼も大いに得るわけですが、
呂布は陳珪・陳登が、既に曹操に通じているとも知らる由もなかったわけです。
曹操と通じた陳登&呂布の滅亡
曹操は袁術の使者の首を届けたお礼に、
曹操が朝廷に働きかけ、呂布を左将軍に任命するのですが、
これに感謝した呂布は曹操の元へ陳登を派遣します。
もちろん要件は、感謝を伝えてくるようにということですが・・・
しかし陳登は、ここで迷わず曹操に轡替えをしたのでした。
「内部から手助けするので、早く呂布を討伐すべきである!」と・・・
それを聞いた曹操は陳登を信頼し、広陵太守に任じています。
そして密約を果たした陳登は、何食わぬ顔で呂布の元へ帰っていくのでした。
その後に曹操が徐州に攻め込むと、
陳珪と陳登は曹操に協力する形で、内部から切り崩しにかかります。
そして呂布軍の士気が上がらない中、
更なる裏切者が続出し、呂布は捕らえられてしまう事に・・・
捕らえられた呂布は処刑されたわけですが、
陳登はそのまま曹操に仕え、曹操から伏波将軍に任じられています。
ちなみにですが三国志演義での陳登の出番は、ここで実質終了ということになりますね。
ただ正史では孫策に勝利した話であったり、
病気になった際に華佗の治療を受けた話などが残っていたりします。
互いに信頼しあう関係だった劉備と陳登
劉備が劉表の元へ流れていた頃、
許汜という人物が、
「陳登殿は横暴な人間である」と陳登を低く評価したことがありました。
※許汜&陳登・・・どちらも元呂布の配下
それを聞いた劉備が理由を尋ねると許汜は次の用に答えます。
「陳登殿は客人をもてなす心がないばかりか、
私と口さえも聞いてくれなかたった。
また休む際には自分自身が寝台で休み、客人である私を床に寝かせたのだ。」 |
それを聞いた劉備は次のように答えます。
「許汜殿は国士としての名声が高いにもかかわらず、
いつも領地や財物を求めるばかりで、ろくな進言もしていなかったであろう。
おそらく陳登殿は、そんなあなたの性格を嫌ったのでしょう。
もし私が許汜殿をもてなした場合は、 私は楼上で休み、許汜殿には地面で寝かせていただろう。
そう考えたら、陳登はまだ優しい方だと言えよう。
そもそも陳登殿は、文武と胆志を兼ね備えており、 彼に匹敵する者など、なかなかにいない程の人物である。」 |
そしてその陳登はというと、
呂布が滅亡した後は曹操に仕えてますが、
かつての主人であった劉備に対して高い評価をした話が残っています。
「劉備は傑出した能力を兼ね備えており、人の上に立つべき人物であった。」 |
劉備は陳登に対して、陳登は劉備に対して、
互いに厚く信頼していたからこそ素直な評価を与えたのでしょうね。