高順(こうじゅん)

呂布の配下といえば、後に曹操のもとで大活躍する張遼が最も有名でしょう。
しかし、呂布軍には張遼にも劣らぬ武勇を持ちながら、
わずかな史料しか残されていないために、その実像が十分に知られていない武将がいました。
その人物こそ、高順です。
高順の字や出身地、生年などは伝わっておらず、いつ頃から呂布に仕えたのかも明らかではありません。
それでも『三国志』や『英雄記』に残された記録を見る限り、高順は単なる一介の猛将ではありません。
規律を重んじ、私欲がなく、戦場では極めて強く、
しかも主君に対して最後まで忠節を貫いた武将だったことが分かります。
そして後世、高順を象徴する名前として知られるようになったのが、高順が率いた「陥陣営(かんじんえい)」という異名部隊です。
私欲がなく、規律を重んじた高順
「魏志呂布伝(裴松之注「英雄記(漢末英雄記))」)」では、高順について非常に興味深い人物評を残しています。
高順は忠節を守り、威厳があり、酒を飲まず、人から贈り物を受け取らなかったといいます。
つまり、当時の武将としては珍しいほど私生活が質素で、私利私欲に走らない人物だったわけです。
さらに高順が率いていた兵は、わずか七百人ほどだったとされています。
しかし、その七百人は非常によく訓練されていました。
高順は日頃から兵士たちの鎧や武器を整備させ、「いつ戦いになっても、すぐに出陣できる状態」を維持していたといいます。
この徹底した軍規と戦備こそ、高順の強さの大きな理由だったのでしょう。
そして高順の率いる部隊は、敵陣を攻撃するたびに成果を上げたため、
「高順が攻撃すれば、敵陣は必ず陥落する」という評判が生まれ、
後に「陥陣営」と呼ばれるようになったとされています。
これは単なる勇猛さだけではなく、
小規模ながら精強な部隊を率いる指揮官としての能力を示すエピソードと見ることができます。
郝萌の反乱(高順の実力が示された戦い)
高順の名が史料上ではっきり登場するのが、建安元年(196年)6月の郝萌の反乱です。
当時、呂布は徐州を支配していました。
その呂布に対して、配下の郝萌が突然反乱を起こします。
郝萌は夜間に兵を率いて呂布の居所を襲撃しました。
突然の襲撃に呂布は犯人が誰なのか分からず、逃げ回ることになります。
そして呂布が高順のもとへ逃げ込むと、
「襲撃してきた者たちは河内の言葉を話していた」と伝えます。
それを聞いた高順は、反乱の首謀者が郝萌であることを察しました。
郝萌が河内出身だったからです。
高順はすぐさま兵を率いて郝萌を攻撃し、反乱軍を撃破しました。
逃走した郝萌は、配下の曹性からも襲撃され、負傷します。
そして最後には高順によって討ち取られました。
この一連の対応からも、高順が単なる武勇だけの武将ではなく、
状況を素早く判断して反乱を鎮圧する能力を持っていたことが分かります。
郝萌の黒幕は誰だったのか?
反乱鎮圧後、捕らえられた曹性から事情を聞いたところ、
郝萌は袁術と呂布の側近である陳宮と共謀していたと証言したと『英雄記』は伝えています。
これが事実なら、呂布にとっては非常に深刻な問題です。
なぜなら陳宮は、呂布軍の中でも重要な立場にあった人物だからです。
この時、陳宮は呂布の前で顔を赤らめ、何も弁明しなかったとされます。
しかし、呂布は陳宮を処罰しませんでした。
その理由として史料では、陳宮が当時の呂布軍における重要人物だったことなどが考えられますが、具体的な理由までは明記されていません。
この事件は、呂布軍内部に重大な亀裂が存在していたことを示す事件だったことは間違いありません。
そして、この事件で功績を挙げた高順は、呂布から評価されることになります。
呂布に進言した高順
高順の魅力は、ただ戦場で強かったという点だけではありません。
『英雄記』には、彼が呂布に対して政治・軍事上の進言を行ったことも記されています。
その一つが、臧覇との対立です。
当時、臧覇は徐州東部で勢力を持つ有力者でした。
呂布は臧覇を攻撃しようとしましたが、高順はこれを諫めます。
高順は、呂布が董卓を討った功績によって得た威名を利用して、
臧覇を帰順させるべきであり、軽々しく攻撃して失敗すれば、せっかくの名声を失うことになる、と進言したのです。
これは非常に現実的な意見でした。
ところが呂布は高順の忠告を聞き入れず、臧覇を攻撃します。
結果として臧覇に勝利を得られず、呂布は思うような成果を上げられませんでした。
この点からも高順は単なる「突撃型の猛将」ではなく、
戦うべき時と、戦わずに相手を従わせるべき時を考える人物だったことがうかがえます。
小沛攻略(劉備を追い詰めた高順)

高順の最大の武功の一つが、劉備との戦いです。
建安3年(198年)、呂布と劉備の対立が激しくなると、呂布は高順に劉備を攻撃させました。
この戦いで高順は張遼とともに出陣します。
そして劉備が守る小沛を攻撃し、これを陥落させました。
この戦いでは、劉備の妻子も高順らによって捕らえられています。
また、劉備を救援するため曹操が派遣した夏侯惇も高順と戦っていますが、
夏侯惇は敗れて片目を失ったと『三国志』夏侯惇伝に記されています。
ただし、ここは非常に重要な点です。
正史では「高順が夏侯惇の目を射抜いた」とは記されていません。
あくまで戦いの中で失ったということですね。
また、正史では小沛攻略の主力として高順と張遼が活動していたことは確認できますが、
戦闘の細部については史料によって情報量に差があります。
それでも、高順が劉備を小沛から追い落とし、
曹操の援軍にも勝利したという事実は、高順の軍事能力を考えるうえで非常に重要です。
「陥陣営」と呼ばれた精鋭七百人

高順の最大の特徴は、兵力の多さではありません。
むしろ、七百人ほどの兵を率いながら、極めて高い戦闘力を発揮したことにあります。
高順の部隊は、常に武器・甲冑を整備し、戦闘態勢を維持していました。
高順自身も贈り物を受け取らず、酒も飲まず、私生活を律していたとされます。
こうした指揮官の姿勢が兵士にも伝わり、精鋭部隊が形成されていたのでしょう。
だからこそ、
「高順の軍が出れば、敵陣は陥落する」
という評判が生まれたのだと考えられます。
「陥陣営」という呼び名は、高順個人の武勇だけではなく、
高順と七百人の精鋭部隊そのものを象徴する名前だったと考えると分かりやすいでしょう。
ところが、これほど優秀な武将だったにもかかわらず、
高順は次第に呂布から冷遇されるようになります。
ここが高順の生涯における、非常に皮肉なところです。
呂布は高順の兵を取り上げ、その兵を魏続に与えました。
そして戦いになると、必要に応じて高順に魏続の兵を率いさせたとされています。
つまり、高順が長年育ててきた精鋭部隊を取り上げられ、
戦場では別の将の兵を指揮させられるという状況になったわけです。
普通なら不満を爆発させてもおかしくありません。
しかし、高順はそれに対して恨み言を言うこともなく、与えられた任務を黙々と遂行しました。
ここに高順という人物の大きな特徴があります。
自分の地位や待遇よりも、主君に与えられた役割を優先した武将だったのです。
下邳の戦い(高順の最期)
そして198年末から199年にかけて、呂布の運命を決定する戦いが始まります。
曹操が徐州へ進軍し、呂布の本拠地である下邳を包囲しました。
呂布軍は籠城して抵抗しますが、曹操軍の攻撃は次第に激しくなっていきます。
そして最後には、侯成・宋憲・魏続らが呂布を裏切り、曹操側の勝利で幕を下ろしました。
高順が捕らえられた後、曹操は彼を配下に加えようとしたのかどうかですが、
正史には「曹操が高順を説得した」という具体的な記録はありません。
ただ、結果として高順は曹操に仕えることなく、呂布・陳宮らとともに処刑されています。
それだけに後世の人々は、
「もし曹操に仕えていたら、高順も張遼のような名将になったのではないか」
と想像するようになりました。
もちろん、これは歴史ではなく「もしも」の話です。
しかし、高順の戦歴を見ると、その想像にも一定の説得力があります。
二人の運命を分けた高順と張遼
高順と張遼は、どちらも呂布の配下として戦いました。
そして二人とも曹操軍に捕らえられています。しかし、その後の運命は正反対でした。
張遼は曹操に仕え、魏の名将として大活躍し、
特に合肥では孫権率いる大軍をわずかな兵力で撃破し、「遼来来」と恐れられるほどの名将となります。
一方、高順は処刑され、その才能を魏のために発揮する機会を与えられませんでした。
もし高順が張遼と同じように曹操に仕えていたなら、
夏侯惇、夏侯淵、徐晃、張遼、張郃、于禁らの名将の中に数えられる存在となっていたかもしれません。
ただ上でも述べたように高順は、
三国志の中でも非常に記録が少ない武将の一人であり、生年も出身地も分かっていません。
そればかりかいつから呂布に仕えたのかも分かりません。
それにもかかわらず、後世まで名前が残ったのは、残されたわずかな記録が非常に強烈だったからでしょう。
| 酒を飲まず、贈り物を受け取らず、兵士の装備を常に整え、わずか七百人ほどの精鋭を率いて敵陣を次々と突破する。
そして主君から兵を取り上げられても不満を漏らさず、最後には主君とともに死を選ぶ。 |
そんな高順という人物を一言で表すなら、
「私欲を捨て、戦場では敵陣を陥れ、最後まで主君に従い続けた孤高の猛将」
だったと言えるでしょう。
そして「陥陣営」という異名は、単に強かったことを示すだけではありません。
そこには、規律・忠節・武勇を兼ね備えながら、
歴史の表舞台から静かに消えていった高順の生涯そのものが凝縮されているからでしょう。
高順の素性考察(高雅&陳留高氏)

最後に高順について私見(考察)を述べておきます。
張遼は呂布が丁原に仕えていた頃から共に呂布と歩んできた人物です。
一方で高順は、呂布が兗州・徐州へと流れてきた辺りから記録(曹操戦・劉備戦)が残されているのが実情です。
呂布が張邈・張超・陳宮らと共に兗州で反乱を起こしましたが、
この時に多くの郡県が曹操に叛いて呂布に味方しています。
※鄄城・東阿・范以外は呂布の支配下となる。
この時に高雅という人物も曹操軍と戦っているのですが(最終的に于禁に敗北)、
もしかすると、高順は高雅の一族であったと考えると納得できる点も多いです。
あくまで推測にはなりますが、兗州も陳留郡圉県には有名な高氏の一族がいました。
高幹・高柔らを輩出した名門・高氏の出身地です。
もしかすると高雅と高順は同族であり、
その延長線上に二人が陳留郡高氏であった可能性もあるかと思いますし、
高雅が敗れた後に、高順がその軍勢を引き継いだ可能性も十二分に残ってるような気もします。
だからこそ曹操は張遼を許し、兗州での反乱勢力である高順を許すことはできず、
最終的に呂布らと共に高順も処刑するに至ったのではないかと想像したりするわけです。

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