董卓の暴政 -長安遷都後も続いた恐怖政治-
反董卓連合軍が結成されると、
董卓は都であった洛陽を放棄し、長安へ遷都します。
しかしその際、董卓はただ逃げただけではありませんでした。
彼は洛陽を徹底的に破壊し、宮殿・民家を焼き払い、墓を暴いて財宝まで略奪したと言われています。
住民数十万人を強制移住させ、その道中でも多くの者が死亡しました。
また少帝(劉弁)を廃立し、献帝(劉協)を擁立するなど臣下にあるまじき行為を行っただけでなく、
反董卓連合が結成された際(長安遷都前)に、少帝(皇帝→弘農王)を殺害しています。
このため董卓は中国史でも悪名高い暴君として知られるようになります。
そして長安遷都後も董卓の暴政は続く事となります。
父子の契り(董卓と呂布)

董卓を暗殺した人物として知られるのが呂布ですが、
呂布はもともと丁原に仕えていた人物でしたが、主君である丁原を殺害して董卓に仕えた人物になります。
その後、董卓と呂布が父子の契りを結んだことが、
「後漢書」呂布伝であったり、「魏志」呂布伝に残されています。
| 三国志演義では金品財宝であったり、
赤兎馬によって養父である丁原を裏切って殺害したように描かれていますが、 正史三国志に丁原が呂布の養父である事の記載はなく、赤兎馬を董卓から譲渡されたといった記載もありません。 |
そんな董卓と呂布の関係ですが、次第に悪化していったようです。
董卓は非常に粗暴な性格で、気に入らないことがあるとすぐ暴力を振るいました。
「正史後漢書」「正史三国志」などによれば、
董卓は些細な事で怒り、呂布に手戟(短槍のような武器)を投げつけたことがありました。
呂布はなんとか避けましたが、「いつ殺されてもおかしくない」という恐怖を抱くようになったとされています。
さらに、「呂布が董卓の侍女と密通していた」という記録も残されています。
これが後に貂蝉の元ネタになった女性になります。
王允の策謀(董卓打倒計画)&董卓の最期

独裁政治を続ける董卓でしたが、その最期は刻々と迫ってきていました。
そして董卓討伐の中心となったのが王允で、
三公(司徒・司空・大尉)の一つにあたる司徒に任じられていた人物になります。
王允は後漢王朝に忠誠を誓う忠士であり、
「このままでは漢王朝が完全に滅びる」と危機感を抱き、
黄琬や士孫瑞と共に董卓殺害計画を練る中で、董卓に不満を持つ呂布に引き入れる事に成功します。
そして初平三年(192年)に行動を起こした王允・呂布らは、
董卓が宮廷へ入ろうとした際を狙って襲撃し、董卓を討ち取る事に成功しました。
中華全土を恐怖に陥れた董卓の呆気ない最期だったわけです。
その後、董卓の死体は見せしめとして晒されますが、
猛暑が続いた為に董卓の死体から脂が流れ出ていた逸話や董卓のへそにつけた火が数日にわたって燃え続けたといった逸話も残されています。
| ~三国志演義に描かれる美女連環の計~
後世の歴史小説である三国志演義では、 王允は養女である貂蝉の美貌によって董卓を殺害する計画を立てます。 これが有名な美女連環の計ですね。
王允は貂蝉を呂布・董卓の両方に近づけ、 二人は王允の計画に見事にはまり、貂蝉に夢中になってしまいます。
しかし董卓が貂蝉を独占した事で呂布は激怒し、 そこへ王允が董卓殺害をほのめかすと、呂布は董卓殺害を決意し、 最終的に董卓殺害に成功したという流れになります。
そんな演義の世界で誕生した貂蝉ではありますが、 西施・王昭君・楊貴妃と並んで中国四大美女の一人として扱われているのは余談です。
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王允政権の誕生&最期 -致命的失策-
董卓死後、王允・呂布が実権を握ります。
しかし、この政権は長続きしませんでした。
王允は非常に理想主義的かつ頑固な人物で、
董卓の一族だけではなく、関連者の多くを粛清していきます。
- 董卓一族の粛清
- 董卓配下の粛清
- 涼州軍閥の粛清
この時点で董卓軍残党は王允らに恐怖を抱く者が増えていき、
王允・呂布らの政権があっさりと崩壊する事へと繋がっていくのでした。
西方にいた董卓軍残党である李傕・郭汜も当初降伏を考えていましたが、
王允が降伏を認めなかった事で二人は長安へと攻め込むに至ります。
この時に一か八か長安へ攻め込むことを提案したのが賈詡です。
| 賈詡「逃げれば逆賊として殺される。ならば長安を攻撃すべきである。」 |
そして李傕・郭汜の軍勢は見事に長安を陥落させ、
呂布はなんとか落ち延び、王允は捕縛された後に処刑されてしまいます。
| この戦いの中で呂布と郭汜が一騎打ちした記録が残されています。
この一騎打ちは呂布が勝利を収めたものの、郭汜を討ち取るまでには至っていませんが、 三国志の記録の中でも珍しい一騎打ちの記録でもあります。〈「魏志」呂布伝(裴松之注「英雄記」)〉 |
曹操による献帝擁立

長安を追われた呂布は、
袁術→袁紹→張楊→劉備と各地を転々としていくこととなります。
一方で長安制圧に成功した李傕・郭汜でしたが、
彼らもまた権力争いを始め、ついには献帝を奪い合うという事態に発展しました。
そんな権力闘争に嫌気をさした献帝は長安を脱出し、
旧都である洛陽へと苦難の道を歩むに至るわけですが、なんとか洛陽へと到着します。
しかし洛陽は廃墟と化しており、食糧も兵もないという悲惨な状況下にあったわけですが、
ここで手を差し伸べて献帝を保護したのが先に述べた曹操になります。
そして曹操は新たに許(後の許昌)を都として、
献帝を擁立し、「漢王朝を守る忠臣(政治的正統性)」という大義名分を得るに至ったのです。
つまり、
- 董卓の暴政
- 呂布の裏切り
- 董卓の死
- 王允の失策
- 李傕・郭汜の内乱
- 献帝流浪
という一連の混乱を経て、
最終的に曹操による覇権形成へと繋がっていったのです。

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