「袁紹軍に顔良・文醜あり!」と言われ、

袁紹軍の片翼を担った文醜とはどんな人物だったのか・・・

 

 

顔良は漢字で「顔が良い」と書くことから、

イケメンと言われたりすることがあるのに対し、

 

文醜は「醜い」という漢字が入っていることから、

ブサメンと言われることもある悲しい人物でもあったりします。

 

 

勿論冗談交じりの比喩なんで、

顔良がイケメンだったのかとか文醜がブサメンだったのかは、

 

当たり前ですがそんなの分かりません(笑)

正史における文醜(ぶんしゅう)

袁紹軍の二代巨頭として名が挙がる一人が文醜であったりしますが、

若かりし時がどういう人物であったのかなどは分かっていません。

 

正史に登場した際には既に袁紹臣下でしたから・・・

 

「ただ顔良同様に、

袁紹に忠誠を尽くした人物であり、

 

袁紹軍を代表する猛将だ」と言われていますね。

 

 

ただ顔良が白馬の戦いで関羽に討ち取られると、

顔良に代わって曹操軍への攻撃を命じられています。

 

 

文醜は白馬津から移動していた曹操を攻撃する為に、

 

黄河を渡航していくのですが、これが死への旅立ちだったとは、

この時の文醜は知る由もなく・・・

 

 

文醜が延津えんしんという場所で、

曹操軍の食糧や武器を積んだ輸送隊に出くわします。

 

勿論これは曹操の罠(荀攸の計略)だったのですが、

文醜はそうとは気づかずに輸送隊に群がったのでした。

 

 

罠にかかった文醜の部隊に曹操軍の伏兵が襲い掛かることに・・・

そして文醜の部隊は壊滅し、文醜自身も討死してしまうのでした。

袁紹軍の猛将「顔良」

三国志演義での文醜の外見

三国志演義に描かれる顔良は、

顔良と義兄弟の契りを結んでいるという設定で登場しています。

 

 

文醜の身長は約八尺あったとされていますが、

 

当時の一尺は約23cmので、

身長が大体184cmあったということになりますね。

 

 

また中国の伝説上の霊獣である、

獬豸(かいち)のような顔をしていたといいます。

 

 

同じ霊獣である麒麟などと違って「獬豸」って聞きなれない言葉だと思いますし、

想像もできない人も多いのではないでしょうか?

 

一言で分かりやすく言えば、

化物みたいな顔をしていたという事ですね。

 

少し良い言い方をるとすれば、

中国版のユニコーンみたいな感じかもしれません。

 

 

まぁとにかく文醜が不細工だということを言いたいのでしょうけど、

単純に文醜の名前から採用された設定でしょうね。

三国志演義での文醜の活躍

文醜が初めて三国志演義に登場するのは、

192年に袁紹と公孫瓚が争った界橋の戦いになります。

 

まぁ一言で言ってしまうと、

顔良と似たり寄ったりの登場なわけです。

 

 

 

この界橋の戦いは、

袁紹軍優勢に展開していくこととなります。

 

そして公孫瓚を後一歩で討ち取れそうな所まで、

追い込んだのが文醜なんですが、

 

ここで放浪の旅を続けていた趙雲が登場して、

公孫瓚を救う流れとなっていますね。

 

完全に趙雲の咬ませ犬的な役割を与えられるわけです。

三国志演義での文醜の最後

それからしばらくして、

袁紹は曹操と白馬で激突するわけですが、

 

この戦いで兄貴分であった顔良が、

関羽に討たれてしまいます。

 

ここで顔良に代わって攻撃を命じられたのが文醜でした。

 

 

文醜も顔良同様にあっさり討ち取られたと勘違いしている人もいたりしますが、

実際は結構粘る活躍を見せたというのが正直な所です。

 

 

それがどんな活躍だったのか軽く紹介すると、

 

張遼を矢で射落とす活躍を見せたり、

徐晃の部隊を撤退に追い込んだりとなかなかの活躍を見せています。

※張遼・徐晃は、魏の五大将軍

 

 

しかし張遼や徐晃を苦しめた文醜も、

最後は関羽によってあっさりと討ち取られるわけでして・・・

 

関羽の凄さを知らしめたかった意図が、

余裕で垣間見える展開となっています。