伊籍(いせき)

伊籍は、最初同郷であった劉表に仕えますが、

劉備が荊州へ落ち延びてくると、交流を盛んにしています。

 

劉表死後は、劉備に仕え、

入蜀を果たします。

 

劉備が益州を手に入れてからは、

左将軍従事中郎に任命されています。

 

この役職は、

簡雍(かんよう)・孫乾(そんけん)に次ぐ役職でした。

 

この二人は長らく劉備と苦楽を共にしてきた人物だったことからも

伊籍に対する評価の高さが伺える任命でした。

孫権への使者

伊籍がある時に、

呉に使者として派遣されます。

 

伊籍が呉に到着し、孫権にお目通りすると、

孫権に「無道な君主に仕えると苦労しているだろう!?」

と劉備を皮肉った質問をされます。

 

これに伊籍は答えます。

「拝礼して、起き上がるだけのことです」

 

これには、劉備を愚弄した孫権こそ、

逆に無道の君だと意図が込められていたのです。

 

これを聞いた孫権は感心し、

機知ある回答をした伊籍を褒め称えます。

蜀科制定

その後の伊籍は、昭文将軍に昇進し、

益州をまとめる為にも法律を制定しなおします。

 

この時、諸葛亮・法正・劉巴・李厳らと協力して

「蜀科」を制定しています。

 

共に制定に関わった人物は、

劉備の信頼が厚かった人物ばかりなことからも、

伊籍が劉備に信頼された家臣だった証拠だと思います。

三国志演義での伊籍

正史でも登場がさほど多くありませんが、

三国志演義では更に少ないです。

 

劉備が荊州にいた際に、

劉備の乗っていた馬が的盧(てきろ)であったことを教えています。

 

ちなみに的盧は、凶馬ともいわれ、

持ち主を不幸にすると言われていた馬でした。

 

 

その為、誰かにその馬を貸し、

その人が不幸な目にあってから乗るのが良いと進言します。

 

しかし劉備はそんな迷信など信じず、

乗り続けます。

 

後に蔡瑁(さいぼう)によって、

劉備は暗殺されかけますが、的盧に乗って逃げのびています。

劉備は、檀渓(だんけい)を本当に飛んだの?

 

 

この時、劉備暗殺計画を蔡瑁が立てている事を、

劉備に知らせたのも伊籍です。

 

それ以外には、

荊州でも有名だった馬氏の馬良・馬謖を紹介しています。

白眉