三国志の時代には様々な特殊部隊(精鋭部隊)と呼ばれる軍団がありました。

劉焉率いる東州兵であったり、公孫瓚率いる白馬義従なんかは比較的有名ですよね。

公孫瓚が率いた白馬隊「白馬義従」の栄枯盛衰

 

 

また魏では青州兵・虎士・虎豹騎といった精鋭部隊を抱えていましたし、

呉でも敢死兵・解煩兵・無難兵などを作っていました。

青州兵(曹操軍精鋭)誕生の秘話

曹操の精鋭歩兵部隊「虎士(こし)」

曹操の精鋭騎兵隊・虎豹騎(こひょうき)の力を引き出した曹純

敢死兵・解煩兵・無難兵 -呉の特殊部隊-

 

 

また魏・呉に負けず劣らず、

蜀でも白耳兵・赤甲兵・無當飛軍・中虎歩兵・中虎騎兵といった特殊部隊が存在しています。

 

 

案外知られていませんが、

これらの部隊は常に前線で戦い続けた部隊でもあり、

 

蜀の中の「精鋭中の精鋭」と言われる部隊であったことは言うまでもありません。

白耳兵

白耳兵はくじへい」は劉備の精鋭近衛部隊であり、

劉備を命懸けで守る部隊であったと言われています。

 

 

この「白耳兵」の由来はいくつか存在しています。

 

ただもともと「白毦兵」と呼ばれていたけれども、

これを誤って白耳兵と記録を残してしまった為に「白耳兵」と呼ばれたのだとか・・・

 

 

ちなみに「白耳」とは、

名前の通り耳に白い毛皮のようなものをつけていたから、

 

そのように名付けられたようで・・・

 

 

またもともとの正式名だと言われた「白毦」は、

 

「上質の毛皮で作られた鎧」という意味があることから、

白い毛皮をまとっていたのかもしれませんね。

 

 

諸葛亮の組織した赤甲兵もそうですが、

 

この部隊は武田信玄・井伊直政が率いた赤一色の騎馬隊のように、

鎧や兜が赤一色で構成された部隊でした。

 

 

そういったように白耳兵は、

外見からの「白」と関係していたのは間違いないでしょう。

 

だた個人的には耳飾りなのか鎧なのかというと、まぁ鎧の方が自然な感じがします。

 

また白耳兵の長には、陳到が就任していたというのは分かっているんですが、

そもそも陳到に関しての記述が少なすぎる為に、詳しい事が今に伝わっていません。

 

 

陳到は三国志演義にも登場していませんが、

趙雲に次ぐほどの実力があったといわれているほどの人物です。

 

趙雲も劉備の親衛隊みたいな立ち位置でしたから、

劉備は信頼できる趙雲と陳到に近辺の守りを任せたのでしょうね。

 

 

この陳到率いる白耳兵が活躍したのが夷陵の戦いでした。

 

 

劉備は夷陵の戦いで陸遜に大敗を喫するわけですが、

 

多くの将兵が討たれていく中で劉備が白帝城まで逃げる事が出来たのは、

陳到率いる白耳兵の働きが非常に大きかった為だと言われています。

 

 

 

ちなみに夷陵の戦いには、

もう一人の劉備親衛隊であった趙雲は参加しておらず、

 

後方の江州の守りを任されており、

だからこそ陳到が白耳兵を率いて、夷陵の戦いに参加していたのでしょう。

 

 

ただ残念ながら白耳兵の活躍の記録は、これだけしか伝わっていません。

赤甲兵

白耳兵の所でも名前が出てきた赤甲兵せきこうへいですが、

鎧・兜など赤一色で構成された諸葛亮直属の精鋭弩兵部隊になります。

 

この赤甲兵は三千人程度で構成されていました。

 

 

一つの色で統一するという事には意味があり、

その部隊を見た敵兵は戦う前からその部隊を恐れたりする傾向があったりします。

 

白馬で統一した公孫瓚の白馬義従などは非常に良い例だと思いますね。

 

 

上でも少し書いてますが、

武田信玄の赤備えなどは分かりやすい身近な例でしょう。

 

 

益州の涪陵ふりょう郡の兵士は後漢時代から勇猛な者が多く、

後漢時代の戦闘でも大いに活躍していたようです。

 

そこに目を付けたのが諸葛亮で、

 

涪陵の勇猛な者達の中から

更に厳選して構成させたのが赤甲兵でした。

 

 

赤甲兵は弩兵のスペシャリストとして、

諸葛亮の北伐に欠かせない部隊となっていくわけです。

 

 

ちなみにこの赤甲兵は、

 

一度に十本の矢を飛ばせる「元戎(連弩)」の部隊だったとも言われており、

諸葛亮の北伐には欠かせない部隊でした。

無當飛軍

無當飛軍むとうひぐんは、

単純に「飛軍」と呼ばれることも多いですが、

 

これも諸葛亮が組織した特殊部隊であり、

益州南部の少数民族を中心に集められた部隊になります。

 

 

この部隊は山岳戦を得意としており、

山岳を利用して弓矢を放つスペシャリストでもあったわけです。

 

 

この部隊は、以下の5つで構成されていた歩兵部隊でした。

  • 青羌(羌人で組織された部隊)
  • 賨叟(賨人で組織された部隊)
  • 突将(突撃先鋒隊された部隊)
  • 無前(歩兵の精鋭部隊)
  • 無当(歩兵の精鋭部隊)

 

これらをまとめて「無當飛軍」というわけですが、

この5つの軍団の中でも「青衣(地名)」出身の「青羌(羌人)」が中心的役割を担っていたと言われています。

 

ちなみにこの青羌という部族ですが、劉焉が益州豪族の反乱の際に、

勇猛な部族であった青羌を味方につけて撃破したという話も残っていたりします。

 

 

 

この「無當飛軍」の長を任されたのは、街亭の戦いで奮闘した王平でした。

王平死後は、張嶷がこの部隊の長に就任したようです。

 

 

ちなみに張嶷は、重病の身でありながら姜維の北伐に従軍し、

 

最後は徐質と戦って戦死するものの、張嶷の部隊は死を恐れず、

味方の損害の倍以上の敵を倒したばかりか、徐質まで討ち取っています。

異民族や賊討伐のスペシャリストであり、諸葛亮の南征のモデルとされた張嶷(ちょうぎょく)

中虎歩兵

中虎歩兵は諸葛亮直属の部隊であり、

諸葛亮が北伐を行う際に欠かせない精鋭歩兵部隊でした。

 

この精鋭歩兵である中虎歩兵というものは、諸葛亮の第一次北伐で作られたと言われています。

 

 

中虎歩兵は五千~六千人程度で構成されており、

第一次北伐で蜀に降った姜維が中虎歩兵の指揮を任されることとなったのでした。

 

ちなみに中虎歩兵の指揮を任される人物を「虎歩監」と言います。

 

 

そして降将であるにもかかわらず、虎歩監に任じられた姜維は

才能を高く評価されての大抜擢だったわけですね。

 

そういうこともあって、

姜維は諸葛亮の北伐に欠かせない人物となっていきます。

 

 

 

ちなみに諸葛亮の第五次北伐で、

この「虎歩監」を任されたのは孟琰という人物だったようです。

 

後に姜維が幾度となく北伐を行った際には、

姜維の主力となったのがこの中虎歩兵だったのは余談です。

 

 

もしかしたらこの中虎歩兵は、

蜀の優れた技術者でもあった蒲元ほげんの刀剣などを装備していたのではないでしょうかね!?

 

いや絶対に使っていたとみる方が自然だと思います。

蜀の軍事力を支えた真の技術者・発明家、蒲元(ほげん)

中虎騎兵

中虎騎兵も中虎歩兵同様に諸葛亮直属の部隊でした。

これは名前から見ても分かると思いますが、蜀の精鋭騎馬軍団ですね

 

魏でいう所の虎豹騎にあたる感じです。

 

 

 

この部隊の人数などははっきり分かりませんが、

中虎歩兵同様に、五千~六千人程度だったと思われます。

 

 

ちなみに中虎騎兵を率いる者は「虎騎監」と呼ばれ、

 

この部隊を任されたのが徐州から長らく劉備を支え続けてきた麋竺ではなく、

その孫にあたる糜照びしょうが指揮を任されていたようです。

 

 

イメージはわかないかもしれませんが、

麋竺・糜威びい(麋竺の息子)が弓馬の腕が優れていたとも一説では言われており、

 

糜威の息子である糜照は特にその才能に優れていたことなども含めて、

「虎騎監」に任じられたのかもしれませんね。

 

 

このあたりは資料が残っていないので推測になってしまいますが、

姜維の北伐の際に虎騎監として中虎騎兵を率いていたのも糜照だったと思われます。

 

 

 

白耳兵・赤甲兵・無當飛軍・中虎歩兵・中虎騎兵を紹介してみましたが、

 

こういった精鋭部隊(特殊部隊)が蜀にもいたからこそ、

魏・呉の大国とも対等に渡り合っていけたことを覚えておきたいですね。