石徳林(姓は石、諱は不明、字は徳林)

蒼天航路(30巻131P)より画像引用

 

石徳林は、名前から大体分かりますが、

諱(名)は今に伝わっておらず、字が徳林になりますね。

 

まぁ分かりやすく別例を出すと、曹孟徳(曹操)や劉玄徳(劉備)みたいなものです。

 

 

石徳林は個人伝が立てられている人物ではなく、

「魏志」管寧伝の中に、王烈・張臶ちょうせん・胡昭らの個人伝が書かれてありますが、

 

その注釈の中に「魏略」が添えられており、

その中で扈累こる」と共に紹介されているのが石徳林(寒貧)になります。

 

 

石徳林は雍州安定郡の出身であり、

若かりし頃に旧都であった長安へと赴き、欒文博らんぶんはくという学者の元で学んだようです。

 

欒文博という人物は、長安では名の知れた学者の一人であり、

その門下生は数千人ほどいたと言われています。

 

そこでの石徳林は、「詩経」「尚書」の勉強をしていましたが、

次第にそれらの勉学より「方術(内書)」を好んで勉強するようになったといいます。

 

 

石徳林は寡黙な性格で、建安十六年(211年)に、

韓遂・馬超らによる関中十部の乱が勃発すると、石徳林は漢中へと身を隠したようです。

 

漢中に移ってからの石徳林は、働く事もせず、妻子を養う事もなく、

 

昼夜を問わず「老子(五千字)」や「様々な内書」を読んで、

のんびりとした生活を送っていました。

 

 

しかし曹操が潼関の戦いで韓遂・馬超らを破り、漢中の張魯を降、

その後の建安二十五年(220年)に漢中が打ち破られたので長安へ戻ったと書かれています。

 

この記載は劉備が漢中へ侵攻してきた際に、

張既や和洽の提案により、漢中の住民が強制移住させられた事だと思いますので、

 

正確には218年前後の話だと考えるのが自然だと思います。

 

夏侯淵が定軍山の戦いで敗れる前には、

住民の強制移住は完了しているはずですからね。

「素寒貧」の言葉の誕生

蒼天航路(30巻132P)より画像引用

 

長安に戻ってからの石徳林は、

人と会う事をこれまで以上に避けるようになり、乞食のような生活を送ります。

 

食事は美味しいものを求めることもなく、

いつの時も破れた木綿を繋ぎ合わせただけの服で生活していました。

 

石徳林の様子を見た人が、食べ物や衣服の施しをしようとすると、

それを受け取ることを拒みます。

 

 

また石徳林は親戚もおらず、小さい貧家での一人暮らしを送っており、

人々が石徳林を憐れんで衣食を提供する事もありましたが、それを受け取る事もなかったといいます。

 

 

ただ貧し者には郡県から五升の米が毎日支給されており、

それで食いつないでいたものの、その量だけでは明らかに食糧が足らなかった事もあり、

 

多くを貰う事は決してなかったものの、

足らない分だけを乞食として恵んでもらっていたようです。

 

 

また人々が石徳林に対して名を尋ねても何も答えないという有様で、

 

その寒そうで貧しそうな見た目から、

「寒貧」と呼ばれるようになったといいます。

 

 

現在でも「非常に貧しくて何もない有様」のことを

「素寒貧」と呼ぶこともありますが、

 

まさに石徳林の「寒貧」がもとになって誕生した言葉だったわけですね。

石徳林についての「魏略」の記録

魏の事を中心に記載された魚豢が著した「魏略」には、

長安に戻ってからの石徳林の様子を以下のように述べています。

「石徳林は阿呆(アホ)となって、人と面識を持つ事はなかった」

 

今に伝わる石徳林の記録から見ても、間違った解釈ではないと思いますが、

「人と面識を持たなかった」というのは捕らえ方次第だと思います。

 

 

何故ならば、その後に次のようにも記載が残されています。

昔の石徳林を知っていた者達は、

 

時々に石徳林のもとを訪れており、

その時には石徳林もまたひざまずいて知人に挨拶していた。

 

 

そしてその様子を見た周りの人々も、石徳林の姓名すら分からなかったものの、

石徳林がただの阿保ではないと考えたといいます。

 

 

また石徳林と郭淮についての逸話も「魏略」には収められています。

 

「何か望みや欲しい物はあるか?」

と郭淮が石徳林に対して尋ねた際には、

他の人々の時と同様に何も答える事はありませんでした。

 

この時の郭淮が車騎将軍まで出世しており、地位が全くに違ったにも関わらず、

郭淮は石徳林に気を留めたわけです。

 

 

何も答えない石徳林に対して、

郭淮が乾肉・乾飯ほしいい・衣服を提供してあげていますが、

 

ここでも石徳林は余分なものまで受け取るのではなく、

生きる為に最低限必要な乾肉一本と乾飯一升だけを頂いたのでした。

 

 

このようにどんな時でも自分の信念を貫いた石徳林は、

貧しすぎる生活の中で自分だけの哲学を見出していたのでしょうね。

「蒼天航路」でも登場した寒貧

蒼天航路(30巻138P)より画像引用

 

蒼天航路30巻の話ですが、曹操が韓遂・馬超を撃退し、

漢中の張魯を降した際に石徳林を訪ねた話が載っています。

 

曹操が張魯を降した建安二十年(215年)には、

石徳林はまだ移住前で漢中にいた時ですので、

 

記録にこそ残ってはいませんが、曹操と石徳林が実際に会っていた可能性もあるわけです。

 

それを蒼天航路では描かれたのでしょうね。

 

 

まず蒼天航路で石徳林の話が出るのは、

「曹操の部下であった張既の誘いに対して、

十年間にわたって断り続けている。」という事実に対して、

曹操が気になりだした所から話が始まります。

 

そして密かに石徳林と会いにいき、そのやりとりの中で気になるセリフをはいています。

蒼天航路(30巻139P)より画像引用

 

ここで語られる「心腹の友」は、おそらくというか間違いなく、

少し前に自殺させてしまった荀彧の事だと思います。

 

まさに曹操が初めて出会う石徳林に対して、

かつて心を通わせた荀彧の面影を見たという素敵なシーンでした。

 

 

そしてこれに続くように次の曹操と石徳林の言葉のやりとりが続きます。

蒼天航路(30巻140P〜142P)の画像引用

 

曹操と石徳林の最後は、二人の心での会話で締めくくられるわけですが、

非常に心に刺さる別れ方になっています。

曹操「貫けよ 寒貧」

石徳林「あんたもな 奸雄」

 

 

そして石徳林と別れた曹操は騎乗しながら、

 

「志は千里にあり 壮心やまず」

という言葉を置いてきたところにも、

蒼天航路の作者(李學仁/原作、王欣太/作画)らのセンスを感じます。

 

 

これは曹操が詠んだ「歩出夏門行」での言葉の一節で、

 

老驥ろうきれきに伏すも志は千里にあり、

烈士暮年  壮心やまず」から引用されているものになります。

 

これを日本語に分かりやすく翻訳すると、

曹操は次のような意味で石徳林の信念を尊重してあげたという事になりますね。

「年老いたとしても高い志を持ち続け、

その志を生涯貫いていけよ。」と…

 

 

 

余談ですが、「魏志」管寧伝の中に記録が残る胡昭と曹操の会話が、

「歩出夏門行」から用いられた内容と非常に似ていたりします。

 

 

もしかすると曹操が胡昭の志を尊重した逸話を参考に、

 

曹操が石徳林に対して最後に贈った言葉として、

「志は千里にあり 壮心やまず」を選んだのかもしれませんね。