蒋欽(しょうきん)

孫堅が黄祖に討たれると、

周泰と共にその遺児である孫策に仕えます。

 

孫策が挙兵し、江東へ進出すると、

孫策に従って多くの手柄を立てていきます。

 

 

孫策が死去すると、孫権に仕えるのですが、

 

ある時、武勇一辺倒であった蒋欽に対して、

孫権から「もう少し勉強した方が良い」と言われてしまいます。

 

まさに呂蒙と同じですが、

それからの蒋欽は、一生懸命に書物を読んで勉強に励みます。

 

これによって蒋欽は見違えるように成長し、

呂蒙と並んで「その行動は人々の模範となり、国士である」と称賛されています。

 

 

呂蒙の努力した話は知ってるけど、

蒋欽の努力した話は知らなかったという人は案外多いと思いますね。

命を懸けて主君を守る

215年、合肥の戦いが起こると、

張遼の奇襲によって孫権軍は敗北し、孫権が危機に陥ってしまいます。

 

この時に孫権の為に命をかけて守った人物がいました。

それがまさに蒋欽だったのです。

 

張遼の奇襲で命の危機に陥っていた孫権を

蒋欽が奮闘した結果、なんとか孫権を逃がすことに成功。

 

孫権は、蒋欽のお陰で命拾いをしたわけですね。

徐盛と蒋欽の因縁

217年濡須口の戦いが起こると、蒋欽は呂蒙と共に兵の指揮をとったのですが、

蒋欽と徐盛の間には因縁がありました。

 

その因縁とは、徐盛が県令をしていた時、

蒋欽の部下を処罰しようとしたことがあって、

 

孫権は蒋欽の事を考え、徐盛のその行為をやめさせたのですが、

この事によって、徐盛は蒋欽に恨みを持たれたと考えるようになります。

 

 

しかし蒋欽は、恨みを抱くどころか徐盛の長所を褒める事が多かったそうです。

それによって徐盛は、蒋欽を心服するようになりました。

 

この私怨に捕らわれない蒋欽の態度に孫権も感心したといいます。

蒋欽のその後・・・

その後、関羽と荊州をめぐる争いが起こると、

呂蒙に従って蒋欽も参戦しています。

 

曹操と孫権に挟み撃ちにあった形になった関羽でしたが、

その奮闘むなしく、最終的に孫権軍に捕縛。

 

関羽は、孫権に降伏することなく、処刑される形でこの戦いに終止符が打たれます。

 

 

孫権は関羽に勝利し、荊州の領土を増やすことに成功したものの、

最後に悲しい出来事が起こってしまいます。

 

関羽討伐からの帰還の際に、蒋欽がこの世を去ってしまったのです。

 

孫権は蒋欽の死を悲しみ、

蒋欽の残された妻子に対して蕪湖の住民二百戸・田二百を与えたそうです。

徐盛に関する孫権と蒋欽のやり取り

孫権が、蒋欽に尋ねます。

「徐盛は蒋欽と因縁がある徐盛を推挙するのか?」

 

蒋欽が答えます。

「私達家臣は、公に人を推挙する際に、私怨は持ち込まぬものです。

 

徐盛は真面目に務めに励んでおり、

将軍としての器量もあり、1万の兵を率いるにふさわしい人物です。

 

ましてや天下統一も成っていない現在、

家臣一同、才能ある者を国家の為に推挙する義務があります。

 

私ごとの私怨の為に徐盛のような優れた者を、隠したままにできるはずもありません」

 

 

孫権はこれを聞いて、蒋欽を改めて絶賛したといいます。

 

またこの話を聞いた徐盛も、

その後蒋欽に対して心服して命令に逆らう事はなくなったそうです。

徐盛 -呉を思って泣いた将軍-