劉備の荊州南部平定戦(正史)

赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍が勝利した後、

劉備は自分の地盤を求めて、荊州南部の平定に取り掛かります。

 

これによって劉備は、

次の荊州南部4郡の平定に成功しています。

  • 零陵(太守:劉度)
  • 桂陽(太守:趙範)
  • 武陵(太守:金旋)
  • 長沙(太守:韓玄)

 

荊州南部の四天王(荊州四英傑)「劉度」

荊州南部の四天王(荊州四英傑)で、三国志演義で趙雲と義兄弟の契りを結んだ「趙範」

 

もともと4郡の太守とも、

劉備に敵わないと判断して降伏しようとしますが、

長沙の金旋のみ降伏が許されず、討ち取られています。

 

金旋(きんせん)以外の太守は、

全て降伏が認められています。

 

何故金旋のみ降伏を認めなかったのか本当に意味不明ですが、

とりま劉備は、金旋の降伏だけは認めなかったのです。

三国志演義での荊州南部平定戦

 

これが正史の話ですが、

三国志演義でも大体の流れは同じです。

 

最終的に全ての郡が降伏をしているのですが、

家臣の裏切りによって降伏をした郡が二つあります。

それは、武陵郡(韓玄)と長沙郡(金旋)の二つです。

 

武陵太守であった金旋は、

家臣であった鞏志(きょうし)に裏切られ、討ち取られています。

記録が最も残っている荊州南部の四天王(荊州四英傑)「金旋」

 

一方の長沙太守であった韓玄は、

韓玄の客将だった魏延(ぎえん)によって裏切られ、討ち取られています。

荊州南部の四天王(荊州四英傑)「韓玄」

魏延と鞏志が劉備に仕えるまでの流れ

三国志演義では、

どちらの太守も悪代官の設定で描かれているのですが、

魏延と鞏志が劉備に降伏した後の諸葛亮の待遇が非常に違うのです。

 

まずは鞏志から見てみましょう。

  1. 鞏志が武陵太守であった金旋を討ち取る
  2. 鞏志が劉備に降伏する
  3. 諸葛亮は何も言わず
  4. 韓玄に代わり、武陵太守に任命される

 

次に魏延です。

  1. 魏延が長沙太守であった韓玄を討ち取る
  2. 魏延が劉備に降伏する
  3. 諸葛亮によって、主君である韓玄を裏切った罪により斬首を告げられる
  4. 劉備の言葉によって魏延の斬首は許される
  5. 諸葛亮に「二心を持つことなく、懸命に仕えよ」と念押しされる

諸葛亮による二人の処遇の差

鞏志も魏延も同じ流れで劉備に降っているはずなのに、

諸葛亮が明らかに差別してるとしかいいようがない処遇だと思います。

 

基本的に誰にでも平等であるはずの諸葛亮が、

同じ時期で、明らかに処罰が違うのは不思議でたまりません。

 

諸葛亮曰く、魏延には反骨の相があるという理由で、

劉備に殺した方がいいと言ったそうですが、

 

反骨の相があるからというだけで、

殺害されたのでは魏延はたまりませんね。

 

おそらく物語上、

最終的に魏延が裏切る事への伏線として

ここでそのような話を持ち出したのでしょうね。

人を見る目がない諸葛亮

 

諸葛亮は人を見る目には、

乏しかったとしかいいようがないです。

 

逆に劉備は、

人を見る目が確かでした。

 

例えば馬謖に関しては、

諸葛亮は自分の跡継ぎになりうる人物だと判断していたのに対し、

劉備は馬謖の言う事は軽いので、重要な役割につけてはいけないと言っています。

 

結果、第一次北伐の街亭の戦いで、

諸葛亮の命令を無視して山上に布陣し、魏軍に打ち破られています。

結果北伐が失敗に終わります。

 

 

魏延もそうです。

諸葛亮が反骨の相があるなど関係なしに、

劉備の元で活躍する魏延を信頼し、重要な役割を任せています。

 

漢中を平定してからは、

誰もが張飛が漢中太守になるのだろうと想像していたのに対し、

劉備は張飛を差し置いて、迷わず魏延を漢中太守に任命しています。

 

魏延はその期待に応えて、

更に劉備の為に一生懸命尽くしています。

 

一方、魏延を常に反骨の相があるとし、

力を持っていた魏延を使いつつも、常に信頼していませんでした。

 

結果として、後半の北伐では、

諸葛亮の命令に従いつつも心が離れていってしまいます。

 

三国志演義とはいえ、この荊州平定戦での二人の待遇は、

「不平等がでないような諸葛亮らしい判断をした形で書いて欲しかったなぁ」というのが正直な所です。