長沙太守の韓玄
韓玄は曹操が荊州を平定した後に、
荊州南部の長沙太守を任された人物です。
赤壁の戦い後に、劉備が侵攻してくると、
荊州南部の太守(劉度・趙範)らと同様に、
「劉備に降伏した」と記載が残っているのみで、その後の動向であったりは不明です。
韓玄の墓碑
現在の長沙市には、
「漢忠臣韓玄之墓」
と記載された韓玄の墓碑が残っています。
もともとはこの場所には韓玄の廟があって、
「漢太守韓玄之墓」と記載されていました。
しかし明の時代に破壊されてしまっており、
1983年、廟の跡地に墓碑を改めて建て直したといいます。
三国志演義での韓玄
赤壁の戦いで孫権・劉備らが勝利すると、
劉備は荊州南部の切り取りに取り掛かります。
韓玄は長沙太守として登場するわけですが、
短気な性格で、むやみやたらに人を処罰していた人物でした。
また美しい女性がいれば、
城内に召し出すというやりたい放題の太守ぶりだったようで・・・
その為に民衆から、
多くの怒りを買った人物として描かれています。
関羽と黄忠の一騎打ち
劉備に命じられた関羽が五百騎で攻めてきた際は、
韓玄は黄忠に迎撃を命じています。
しかし楊齢が、
「老将軍がわざわざ出陣するまでの相手ではない!」
と出しゃばり、千人の兵を率いて出陣します。
威勢よく飛び出した楊齢ではありましたが、関羽に一刀のもとに斬り捨てられています。
そこで今度は黄忠が関羽討伐に乗り出します。
その中で関羽と黄忠が一騎打ちを始めたのですが、
黄忠は落馬してしまいます。
それを見た関羽は
「こんな事で黄忠に勝っても不本意だ!」
と運に任せて黄忠を斬る事はありませんでした。
そしてその場から一旦撤退し、
「再度一騎打ちで勝負をつけよう」と引き揚げます。
横山光輝三国志(28巻173P)より画像引用
それから少しして改めて関羽と黄忠が激突たのですが、
ここで黄忠が関羽に対して弦を強く引いて矢を放ったのでした。
そしてその矢は関羽の頭巾を見事に貫きます。
もちろん黄忠は関羽を射抜くことも可能でしたが、
前回の戦いで漢気を見せてくれた関羽に対しての黄忠なりの礼の尽くし方だったのです。
黄忠の腕前に驚いた関羽は、再度撤退を判断しました。
横山光輝三国志(28巻177P)より画像引用
魏延の反乱&黄忠の救出
黄忠の弓矢の話を聞いた韓玄は激怒します。
そしてあろうことか、
黄忠を関羽と通じているという罪で捕らえてしまったのです。
またこれまで忠実に仕えてきた黄忠を処刑しようとしまたところで、
魏延が民衆を扇動し、その流れの中で黄忠を救い出します。
そして魏延は韓玄を討ち取って、
劉備に降伏したことで長沙郡は劉備の支配下になるのでした。
ちなみに魏延は劉表に仕えていましたが、
劉琮が曹操に降伏してしまうと、内部から劉備に加勢した人物でもありました。
しかし劉備が南方へと撤退を始めると、魏延も劉琮の元から落ち延び、
長沙郡の世話になっていたという感じですかね。
ちなみにですが、
魏延が劉表・劉琮・韓玄らに仕えたという記録はありません。
あくまで三国志演義での設定になっています。
また劉備に降伏した後の諸葛亮と魏延の「反骨の相」に関する逸話は、
後に二人が対立を深めていく伏線として描かれています。