白馬義従(はくばぎじゅう)

 

公孫瓚は、白馬将軍と言われるた程、

公孫瓚の率いた主力の騎馬隊に数千の白馬がいたことからそう名付けられています。

 

公孫瓚が率いたその白馬隊には弓兵が騎乗しており、

幽州や冀州で大暴れし、異民族からも恐れられるようになります。

 

この公孫瓚が率いた数千の白馬隊を「白馬義従」と呼びます。

ちなみに「義従」というのは「騎乗した弓の達人」といった意味です。

 

白馬義従の活躍によって公孫瓚の勢力は、

は幽州・冀州・青州・徐州の4州をまたいで支配下に置きます。

白馬義従の崩壊

白馬義従のお陰で勢力を大幅に拡大した公孫瓚でしたが、

冀州から勢力拡大を目指していた袁紹と界橋で激突する事になります。

 

白馬義従の恐ろしさは、袁紹軍にも伝わっていましたが、

あまりに有名過ぎたために、袁紹によって対策が取られてしまいます。

 

 

麹義(きくぎ)という人物を、袁紹はこの戦いで起用します。

※麹義・・・高い確率で涼州出身の可能性が高い。

 

涼州は幽州等と同様に異民族との交流が盛んな地域で、

麹義は騎馬部隊への対策になれており、白馬義従も例外ではありませんでした。

 

麹義は歩兵800人の槍を持たせた盾部隊と1000人の強弩部隊を率いて、

約5万人を率いていた公孫瓚と対峙します。

 

強弩というのは人が放つ弓より、

遠くに飛ばせる機械仕掛けの弓みたいなものです。

 

 

公孫瓚は麹義の兵力が少ないとわかると、自慢の白馬義従を先頭に突撃させます。

 

しかし、白馬義従が放つ弓は盾に封じられ、

左右から強弩を浴びせられ、撃破されてだけでなく、

 

公孫瓚軍の厳綱(げんこう)まで討ち取り、本拠まで落とされてしまいます。

これによって公孫瓚軍は離散してしまいます。

 

この戦いで公孫瓚は白馬義従を失ってしまうばかりか、公孫瓚の勢力は一気に衰えていくこととなります。

袁紹軍随一の野戦上手、麹義(きくぎ)

白馬義従を失ってからの公孫瓚

白馬義従を失ってからの公孫瓚は、

 

勢力拡大の野望はどこへいったのやら、

これまでの対外戦略から守り一辺倒の戦い方に転換していきます。

 

 

易京という場所に何重にも強固な壁を築き、城塞を築いていたのです。

 

そしてここで世の中の流れをゆっくりと見守り、

袁紹がその流れの中で弱体化していくのを待つ作戦に変えていきます。

蒼天航路(12巻106P)より画像引用

 

実際にこの城塞は非常に堅固で、袁紹は何度も攻めあぐねたほどです。

しかし最終的には地中から攻められ、滅ぼされてしまいます。

 

白馬義従と共に栄え、白馬義従と共に滅んでいった、

ある意味、白馬将軍の名に恥じない一生だった公孫瓚を今回取り上げてみました。