張純の乱(張純・張挙の乱)

張純幽州漁陽郡の出身で、

中山太守(冀州)に任じられていました。

 

185年に涼州で辺章・韓遂らが反乱を起こすと、

漢王朝は張温に辺章・韓遂討伐をするように命じたのですが、

 

この時に張純は従軍を強く希望したのですが、

その願いは聞き届けられることはなかったのです。

 

 

また張純にかわってこの時に、

従軍の命をうけたのが公孫瓚でした。

 

後に「白馬義従」という、

白馬騎馬隊を率いることで知られる人物ですね。

 

この出来事があってからというもの、

張純は漢王朝に対して大きな不満を抱えたまま時を過ごすこととなります。

 

 

そして187年にその怒りは大爆発したのでした。

張純は同郷の親友であった張挙(泰山太守/兗州)を誘って反乱を起こしたのでした。

 

この際に張挙は「皇帝」を自称し、

張純は「弥天将軍・安定王」を自称しています。

 

 

袁術が皇帝を自称し、

「仲」の国を建国したのが197年の話なので、

 

張挙が「皇帝」を称したのは、

袁術の皇帝自称より丁度十年前の出来事になりますね。

 

 

 

また張純と張挙は北方民族である鳥丸族と手を結び、

 

鳥丸族の部隊長であった丘力居きょうりききょがこの反乱に加勢した事で、

更に規模を拡大させ、総勢五万人規模の反乱となりました。

 

 

張純が最初に決意した反乱だったので「張純の乱」と言われていますが、

実際は「張純・張挙の乱」というのが正確な所であり、

 

もっと言ってしまえば、

「張挙・張純・丘力居の反乱」ということになりますね。

誰もが野心を剥き出しにした時代

三国時代には、

漢王朝の皇帝(霊帝・少帝・献帝)以外にも、

「魏の曹丕」「蜀の劉備」「呉の孫権」「仲の袁術」が皇帝となっています。

 

 

他にも徐州の陶謙と手を組んだ、

闕宣という人物が皇帝を名乗ったという記録もあったり、

 

劉表も皇帝になろうとした逸話であったり、

劉焉も地方独立を夢見た話も普通に残っています。

 

 

他にも陳国を治めていた劉寵も皇帝を名乗ろうとして罪に問われたが、

霊帝が許したという逸話もあります。

 

袁紹にしても「劉虞を新たな皇帝にしよう」と仕向けたりもしました。

 

 

そんな彼らよりも先に皇帝を名乗ったのが張挙だったのです。

ある意味「皇帝自称の先駆者」ですね。

 

とにかく乱れに乱れた世の中が後漢末期の時代でもあり、

三国時代と呼ばれる時代でもあったわけです。

張純・張挙・丘力居VS公孫瓚

故郷があった幽州を中心に暴れていた張純・張挙ですが、

 

幽州だけにとどまらず、

冀州・青州・徐州でも反乱の火の手は広がっていく事となります

 

 

この反乱を討伐すべく、

討伐を任じられたのが公孫瓚でした。

 

 

「悪魔の悪戯」ともいいますか、

「狙っての抜擢だったのか」は不明ですが、

 

張純が反乱を起こすきっかけになった因縁の相手でもある公孫瓚が、

自分達への討伐隊に任じられたわけです。

 

 

これに対して張純は怒りに震えた事でしょう。

 

しかし公孫瓚に張純・張挙は蹴散らされてしまい、

二人は鮮卑族を頼りに北方の地へと逃亡していったのでした。

 

 

公孫瓚は「逃がすまい!」と二人を激しく追撃するも、

 

鳥丸族の丘力居の軍勢に囲まれてしまい、

今度は公孫瓚の方が危機に陥ってしまうのでした。

劉虞が幽州牧に赴任&懐柔策

公孫瓚が丘力居に苦戦を強いられていた時、

劉虞が幽州牧として赴任してきます。

 

 

劉虞は逃亡していた張純・張挙に対して懸賞金をかけるのですが、

 

それと同時に鳥丸族・鮮卑族・匈奴の北方民族に対して

懐柔策を実施していきます。

 

 

この懐柔策に喜んだのが、

張純・張挙に協力した丘力居でした。

 

 

目先としては公孫瓚を苦しめているとはいえ、

戦況的には張純・張挙は敗れた末に逃亡しており、

 

単独で戦い抜くには限度があったからですね。

 

 

その際に「幽州牧として赴任してきた劉虞が許してくれる」というのだから、

丘力居は劉虞に帰順を申し出たわけです。

 

 

また丘力居が劉虞に帰順を申し出た事で、

 

逃亡中の張純・張挙は、部下の王政に裏切られ

この反乱は終着点を迎えることとなります。

 

 

ちなみに張純は王政の裏切りにより討たれ、

その首は劉虞に届けられたのでした。

 

また一方の張挙の方ですが、その後に討ち取られたという話もなく、

どうなったのかは分かっていません。

 

 

ちなみにではありますが、「三国志演義」のほうでは、

張純が討たれた後に張挙は自害しています。

劉虞と公孫瓚

劉虞と公孫瓚はこの張純の乱をきっかけに、

関係がものすごく悪化していきます。

 

公孫瓚自身を苦しめた丘力居が

劉虞に帰順したことも非常に納得のできないものだったからです。

 

公孫瓚としては、

「何故私ではなく、劉虞に降伏したのだ!」

といった所でしょうかね。

 

 

公孫瓚は自分より優れた人物が嫌いな性格でもありましたので・・・

 

また丘力居が劉虞に帰順の使者を送る際も、

公孫瓚が邪魔したりもしてます。

 

 

ちなみにその後、劉虞と公孫瓚の争いは激化し、

大きな戦争へとつながっていく事になります。

 

そして劉虞は悲劇の最後を迎えることになるのでした。

 

 

 

最後に余談ではありますが

「張純の乱」討伐に実は劉備も参加しています。

 

ただ劉備は戦いが始まるとすぐに怪我をしてしまったようで、

「死体の下に隠れて戦いが終わるのを待っていた」

という逸話が残っていたりします。

 

 

死んだふりで命拾いをした劉備ですが、

多くの者達が戦死してしまった事を言いことに、

 

自身の活躍を大袈裟に宣伝し、

結果として中山国安熹県の県尉に任命されています。

 

ちなみにこの逸話は「典略」に記載されている内容ですが、

劉備らしいエピソードの気もしますが、時期がちょっと一致しないのが疑問点ですね。

 

その理由は「中山国安熹県の県尉」に任じられたのが、

もっと前の話だからという単純な理由です。

 

 

ただそういった劉備の逸話も折角なので、最後に紹介させて頂きました。

負けるべくして公孫瓚に敗北した劉虞&むちゃぶりも甚だしい公孫瓚