「青州黄巾賊」の反乱

蒼天航路(7巻124P)より画像引用

 

184年に張角・張宝・張梁の三兄弟が起こした

「黄巾の乱」は、

 

大規模なもので中華全土で反乱の火の手があがったわけですが、

張角の死と皇甫嵩らの活躍によって鎮静していきます。

 

 

しかし各地には黄巾賊の残党がまだまだ沢山いたのが実情で、

各地で反乱はまだまだ続いていたのでした。

 

今夏の主役である「青州黄巾賊」も残党の一角で、

「総勢百三十万」とも言われる青州の黄巾賊が兗州へと攻め込んできたわけです。

 

 

ただ「総勢百三十万人」と言っても、

全員が兵士であるかというと勿論そういうわけではなく、

 

兵士が三十万人、

その家族などの非戦闘員が百万人といった感じです。

 

 

一応「武帝紀」にはこのように記載が残っていますが、

実際はもっと少なかったと思います。

 

 

 

この時に兗州統治を任されていたのは、

反董卓連合にも参加したこともある兗州刺史の劉岱でした。

 

ちなみに劉岱は反董卓連合に参加した人物ですが、

反董卓連合にに参加する前に劉岱を兗州刺史に任じたのが董卓というのは余談です。

 

 

 

また「済北の相」であった鮑信が手助けする形で

兗州刺史の劉岱を助けて戦ったわけです。

 

ちなみに「済北国」も兗州に属する一つの郡になりますね。

 

 

 

勿論ですが一応自分自身で動かせる軍勢の所持はしていますが、

八つの郡の太守に命じれるわけではないのです。

 

あくまで八つの郡が、

自身が治める郡の軍勢のみを指揮できるという構図になります。

 

 

例えば劉岱が治めていた兗州を例にとると、

兗州には八つの郡(陳留郡・東郡・山陽郡・泰山郡・済陰郡・東平国・任城国・済北国)がありますが、

 

これらの郡(国)の軍勢に命じることはできないわけです。

 

 

兵士を動かせる権限があるのは、

 

陳留郡・東郡・山陽郡・泰山郡・済陰郡・

東平国・任城国・済北国のそれぞれの太守のみという感じですね。

 

 

 

そして青州黄巾賊が迫るにつれ、あくまで劉岱は討伐戦を主張しますが、

一方の鮑信は籠城戦を主張したことで意見が分かれてしまいます。

 

 

お互いに意見を変えることがなかったあこともあり、

 

各々の考えを尊重しあう形を取ったのですが、

城から出陣した劉岱が戻ってくることはありませんでした。

 

何故なら鮑信が心配していた通り、

青州黄巾賊によって討ち取られていたからです。

曹操を頼った鮑信

蒼天航路(7巻130P)より画像引用

 

劉岱が討たれてしまった事で、

「鮑信はどうするべきか!?」と悩んだといいます。

 

そこで鮑信は東郡太守であった曹操に助けを求めます。

 

 

また鮑信は東郡太守としてではなく、兗州刺史であった劉岱に代わる形で、

「兗州牧」として曹操を迎えたわけです。

 

 

 

あくまでこれは鮑信が勝手に判断して迎えた事ですが、

何故に「兗州刺史」ではなく「兗州牧」として曹操を迎えたのかというと、

 

「州刺史」と違って「州牧」は、

統治権だけではなく、軍事権も所持していたからにほかなりません。

 

 

今までは強大な相手に対して、

各郡が少数で勝手に戦っていた状況に対して、

 

兗州牧の曹操が兗州全体の兵士を動かす権限が与えられたことで、

まとまって対応できることを意味したわけです。

 

 

 

鮑信はかつて反董卓連合を組んでいた際に、

曹操と最後まで共に戦った人物でもあったりしますが、

 

その後も深いつながりがあったことから曹操に白刃の矢を立てたのだとは思いますが、

曹操の能力を高く評価していた上での話だったのは言うまでもありません。

 

 

 

しかしその曹操も董卓追撃戦の敗北で、

自前の兵をそれほどに所持できていない状態でした。

 

 

そんな苦しい状況にあった曹操ですが、

 

曹洪や夏侯惇が駆け回り、

丹楊太守の周昕から四千人程度をもらいうけたりで、

 

五千人から一万人程度の規模まで増やす事に成功しています。

 

 

そして曹操は鮑信を助けるべく赴くわけですが、

青州黄巾賊は手ごわく、曹操と鮑信は苦戦をしいられてしまいます。

 

そしてその中で鮑信は討死してしまうことに・・・

青州兵の誕生

蒼天航路(7巻152P)より画像引用

 

曹操は青州黄巾賊に対して踏みとどまって戦う事で、

黄巾賊の者達は食糧不足や疲労が溜まってくることになります。

 

もともと青州黄巾賊が兗州に攻め込んできたのも食糧を求めてのことでした。

 

 

その上で苦戦を強いられれば、

どんなに数がいたとしても滅びの道しか残っていません。

 

 

だからこそそれらを逆手にとって

「曹操が何らかの提案(交換条件)をした」と言われています。

 

 

ちなみに「蒼天航路」でも、

このあたりの事には触れられていますが、

 

正史にも交わした条件についての記載は見られないので、

何を約束したのかはあくまで不明です。

 

 

ただ「太平道の信仰自由は認めていた」と思います。

これは後に張魯を降した事例からも分かります。

 

 

二つ目は「食糧提供や住まいなど生活保護」についての事だったと思います。

 

もともと張角が起こした「黄巾の乱」も、

生きることに追い詰められた民衆が多数参加していたものですし、

 

青州黄巾賊が兗州に攻め込んできたのも、

「食糧難が理由である」と記載されていますからね。

 

 

逆に言えば食糧が与えられて、普通に生活できる環境を与えられれば、

これ以上反乱を続ける意味が全くないわけです。

 

 

後は曹操が亡くなった後に青州兵が去っている事実の点を考えると、

「曹操一代」という約束もあった可能性はありますね。

 

 

その点で私が推測した条件になりますが、

この三つについて両者で交わされていた可能性があるということです。

 

-曹操が求める条件-

【曹操傘下の兵士】

 

 

-黄巾賊が求める条件-

【黄巾賊の信仰(太平道)の自由】

【生活保護】

【曹操一代】

 

この三つ以外に可能性がある条件としては、これもあてはまるかもしれません。

【青州黄巾賊のみでの編成】

 

 

ちなみにこの時に降った黄巾賊の兵士は約三十万人

非戦闘員の者達が約百万人という構成で、

 

百三十万人程度の民衆を曹操は手に入れたということになりますね。

 

 

 

曹操は黄巾賊の兵士から更に屈強な者達だけを選抜し、

その兵士達を「青州兵」と呼んだのでした。

 

またその青州兵の数はおおよそ十万人だったと言われています。

 

 

それまでは長らく大きな兵力を持てていなかった曹操は、

これをきかっけに大きな軍事力を手に入れることに成功したわけです。

 

そして「青州兵」は、曹操の飛躍する原動力になり、

大きく飛躍していくこととなります。

 

そのことから「魏武の強 これより始まる」という言葉が誕生しています。

「兗州牧」×「青州兵」×「曹操」

蒼天航路(7巻166P)より画像引用

 

【兗州牧】

【約三十万人の黄巾兵(約十万人の青州兵)】

【約百万人の黄巾の民】

 

 

曹操が飛躍しようにも飛躍できなかった最大の要因は、

「領土」と「兵」の確保でした。

 

しかしこの一戦でその両方を獲得する事ができたのは、

間違いなく曹操が飛躍するきっかけになったのだけは間違いありません。

 

 

また同時に「王佐の才」と高い評価を受けた荀彧が、

曹操に仕えだした事も抑えておきたいのは間違いありません。

 

 

何故なら荀彧の推薦によって、

郭嘉・鍾繇・荀攸・陳羣・趙儼・司馬懿・華歆・王朗など、

 

曹操を支えるべき優秀な人材確保にも成功しているからです。

 

また荀彧の強い奨めもあって

「献帝奉戴」で大義名分まで確保していくことになるのですから・・・

 

 

兗州という「領土」に兗州牧という「役職」、

それに青州兵という「勇猛な兵」に、「荀彧という人物」を掛け合わせた場合、

 

単純な掛け算ではなく、

何十倍もの相乗効果を生むものとなったと思いますね。

曹操死後の「青州兵」

蒼天航路(36巻254P )より画像引用

 

曹操は青州黄巾賊を降した際に、

なんらかの約束(交換条件)をしていたであろう事は上でも述べましたが、

 

これは限られたものだけが知っていた内容だとも言われています。

 

 

長らく曹操の覇業を支えてきた青州兵ですが、

220年に曹操がこの世を去ったことで約束の終焉を迎えたのでした。

 

 

曹操は死ぬ間際に次の遺言を残していることが、

「武帝紀」に記載されています。

庚子、王崩于洛陽、年六十六。

 

遺令曰「天下尚未安定、未得遵古也。

葬畢、皆除服。其將兵屯戍者、皆不得離屯部。

有司各率乃職。斂以時服、無藏金玉珍寶。」

 

諡曰武王。二月丁卯、葬高陵。

 

 

これは次のような意味になります。

「天下は未だ安定していない状況である。

だからこそ古いしきたりににしたがう必要もない。

 

葬儀が終われば皆は直ち喪服を脱ぐように。

また軍役についている将兵は持ち場を離れず、役人はそのまま職務を続けよ。

 

遺体は平服をもってわざわざ着飾る必要はない。

そして金玉珍宝を墓に服装してはならない。」

 

 

 

そんな中で次のような記載が、

「魏書」賈逵伝の裴松之注「魏略」に残っています。

 

「曹操の死後に三十万人にも及ぶ青州兵が、

皆で太鼓をたたいて勝手に去って行った。」と・・・

 

 

この点を考えると当時十万人程度だと言われた青州兵が、

三十万の青州兵と記載されていますね。

 

 

単純に考えると、最初に曹操が降伏させた黄巾賊の兵士三十万人を、

そのまま青州兵の数値として改めて記載したというのが一番分かりやすいです。

 

「青州兵」は一度たりとも編成されたりした記録はないですので、

最初から最後まで「青州黄巾賊の者達だけで構成」されていたはずです。

 

 

このことからも曹操と青州兵の関係は、

単純な主従関係ではなく、

 

「持ちつ持たれつ」

といった関係であったと考える方が自然かもしれません。

 

 

実際に青州兵が略奪を働いたことがあった際も、

「曹操が青州兵を罰した」という記録はありませんし、

 

「普段から曹操が寛容な態度で青州兵に接していた」

と想像する事ができますからね。

 

 

そして曹操が亡くなった事で曹操との約束が終了したことで、

青州兵は曹丕には仕えず、郷里の青州に戻っていったのでしょうね。

 

それか曹操から与えられた領地を耕しながら、

普通の「魏の民」としての道を選んだのかもしれません。

 

 

ただ一つだけ言えることは、

曹操が青州黄巾賊と結んでいた約束を最後まで守り抜き、

 

青州黄巾賊の者達もまた曹操との約束を最後まで守り抜いたということでしょう。