蒋琬(しょうえん)

諸葛亮(孔明)が魏を討つべく北伐をしていた際は、

劉禅を支え、留守中の軍事・内政面を任されていました。

 

孔明が五丈原でこの世を去ると、

孔明の遺言により、孔明から費禕と共に後事を任されます。

 

また孔明の死を聞いて、誰もが慌てふためく中、

蒋琬だけは冷静沈着で普段と変わらない様子だったそうです。

 

 

また蒋琬の一般的なイメージと言えば、

孔明死後北伐を中止し、蜀の国力増大に尽力したと思っている人が多いと思いますが、

そんな蒋琬が実行しようとした幻の北伐計画があったのです。

蒋琬流の北伐計画

 

238年、魏で公孫淵が反乱を起こすと

蒋琬は魏へ攻め込むために、漢中に赴きます。

 

そこで蒋琬は諸葛亮が食糧輸送に苦しんだ西側ルートは避けて、

漢水という上庸城へ繋がっている漢水を利用した北伐計画を考えます。

 

漢水を利用する事で輸送を簡単に行う事ができ、

更に上庸を落とすことができれば、

その後の魏討伐で食糧輸送などに悪戦苦闘する事はなくなります。

 

そして上庸を拠点に

魏の荊州領地を手に入れる事が目的だったようです。

 

しかしこの計画が実行されようとした矢先、

蒋琬は病気にかかってしまい、この計画は断念されます。

 

蒋琬の北伐計画成功の可能性

公孫淵の反乱につけこんで、

蒋琬は漢中に移動して北伐の準備を整えます。

 

実際はかなり前からこの北伐計画は考えており、

蒋琬は船を沢山作らせ、準備していました。

 

そして公孫淵が反乱を起こしたことで行動に移すのは今だと判断したわけです。

しかしこの時に蒋琬の持病が悪化し、行動に移せないまま時が過ぎます。

 

 

実際公孫淵の反乱は1年程度で鎮圧されてしまいますが、

241年に今度は魏呉で大きな衝突が起こり、魏は司馬懿自ら出陣したほどでした。

 

ここでも蒋琬の持病がかんばしくない、

また反対する者が多数おり、この漢水を利用した北伐計画は実行に移せず終了します。

 

もしも実際に行動に移していれば、

上庸城を攻略し、荊州を手中に治めていた可能性も否めません。

諸葛亮本来の魏討伐の二面ルートの復活

孔明は本来漢中からの西側ルートと荊州からの東側ルートの二面作戦で、

魏を倒す事を本来孔明が理想としていたものでしたが、

 

関羽の死とともに荊州を失ってからは、

苦難な西ルートのみでの討伐戦を選択せざるを得なくなりました。

 

もし蒋琬が荊州を手に入れていたならば、

孔明が理想とした二面作戦が実現していたかもしれませんね。

蒋琬の北伐計画の危険性

川を利用する事で、

簡単に上庸へ攻め込むことができますが、

 

その反面、もし敵に敗れるようなことにでもなれば、

退却が非常に難しい事になります。

 

これは劉備の夷陵の戦いを見て貰えれば分かりやすいですが、

劉備は川を利用して呉へ侵攻しますが、

敗北すると退却が困難になり、大敗北に繋がっています。

 

「川の流れに沿って進むは易く、逆らって引くは難く」

とまさにそんな感じです。

 

 

実際その危険性を説いたのが、

蒋琬と同様に後事を任されていた費禕(ひい)でした。

 

「孔明ですら簡単に北伐を成功できなかったのに、

簡単にこの計画が成功するわけがない・・・」といったものでした。

まとめ

蒋琬は文官としてのイメージが強いかもしれませんが、

実際兵法もきちんと心得ていました。

 

戦が下手だった劉備のように、

陣地を延々と伸ばすという失態を犯すとも考えにくく、

 

公孫淵の反乱で魏内部が乱れており、

また魏呉の衝突で戦力を呉に集中させていた時期だっただけに、

蒋琬の水上北伐計画は成功した可能性は十分にあります。

 

 

もしかしたら孔明があの世から、

「この作戦はリスクが大きすぎるから、今は国力重視に務めなさい」

と言って蒋琬を病気にさせて断念させたのかもしれませんね。

 

その後蒋琬の持病が完全に治る事もなく、

246年に病気が悪化してこの世を去ってしまいます。