馮熙(ふうき)の先祖は、光武帝に仕えた馮異である

呉に馮熙という外交官がいました。

まずは馮熙を語る前に、馮熙の御先祖様について少し触れたいと思います。

 

なぜ御先祖様を先に語るのかというと、

結構な大人物だからです。

 

その御先祖様とは、

後漢を立てた劉秀(光武帝)に仕えた馮異(ふうい)という人物の末裔です。

 

 

この馮異はもともと前漢を滅ぼした王莽(おうもう)に仕えるのですが、

その後、劉秀に降っています。

 

馮異は「左氏春秋」「孫子兵法」を愛読しており、

非情に兵法に明るい人物でした。

 

そして常に人に対して、威張らず謙虚であった為、

劉秀からの信頼も厚く、馮熙は劉秀の元で大いに活躍していきます。

 

 

劉秀の跡を継いだ明帝は、洛陽の宮殿に、

劉秀の天下統一を助けた28人の功臣の肖像画を描かせています。

 

これを雲台二十八将(うんだいにじゅうはっしょう)というのですが、

馮異はこの雲台二十八将に数えられ、7人目に描かれています。

①三国志時代の到来によって終了した漢帝国(前漢・後漢)

馮熙(ふうき)、外交官として蜀へ赴く

222年、夷陵の戦いが起こり、

結果は陸遜のお陰で孫権の勝利に終わりますが、

呉と蜀の関係は悪化していました。

 

そこで鄭泉(ていせん)を劉備の元へ派遣し、再度友好関係を築けたのですが、

その劉備も約4か月後に、あっさりこの世を去ってしまいます。

蜀との国交回復に努めた孫権お気に入りの酒飲み、鄭泉(ていせん)

 

 

そこで弔問の使者として、呉は再度使者を送ります。

この時に蜀の成都を訪れたのが馮熙です。

 

馮熙は、表向き上は劉備の弔問の使者として送られますが、

劉備死後の蜀内部の偵察も兼ねての使者でした。

 

蜀内部が変わらず安定しているようなら、

鄭泉が結んでいた友好関係を継続させたいと考えていたからです。

 

その結果、諸葛亮を中心に国内がまとまっているのを確認して、

それを孫権に報告して任務を終えています。

馮熙、外交官として魏へ赴く

呉の孫権は荊州争奪戦で、魏とも友好関係を結んでいたこともあり、

定期的に魏へも使者を送っていました。

 

曹操が死んで曹丕が跡を継いでいましたが、

この時使者として送られたのがまたもや馮熙でした。

 

 

魏を訪れた馮熙ですが、

蜀へ使者を送った事を問い詰めてきます。

 

しかし馮熙は、

「蜀から使者が来たのでその返者を送っただけのこと。

そして蜀の内情を探る為に送られただけです」と弁明します。

フルーツ王子、曹丕!

 

 

また曹丕は続けて質問します。

「最近呉は干ばつで苦しんでいるようだけど大丈夫か?

それだけでなく、人材も不足していると聞いているが・・・」

 

馮熙は即座に言葉を返します。

「我が主である孫権は、全ての者に公平で、

適材適所で人材を配置しているので、人材不足ということはないですね。

 

そして食料は豊富に蓄えてあるので、

干ばつが起きたぐらいで揺らぐことはありません」

 

これを聞いた曹丕は、不快感を示すも、

馮熙が優れた人物であると思ってしまいます。

馮熙、孫権への忠誠を貫く

馮熙が優れた人物であると考えた曹丕は、

魏に仕えるようにいいますが、馮熙は断ります。

 

また同郷であった陳羣(ちんぐん)に、

彼を説得するようにいいますが、陳羣の言葉に耳を傾ける事もありませんでした。

 

これに完全腹を立てた曹丕は、馮熙を捕まえて、牢獄へぶちこみます。

そして幾度となく魏に仕えるようにいいますが、それでも馮熙は拒絶します。

 

 

このままでは、魏に無理やり仕えさせられてしまうと考えた馮熙は、

己を傷つけて、持っていた剣で自殺をはかります。

 

しかし倒れていた馮熙をすぐに見つけた者がおり、

馮熙の手当てをすぐに行ったため、馮熙は死ぬことすらできませんでした。

 

その後も曹丕に仕える事を拒んだ馮熙は、

死ぬまで魏に捕らえられたまま、生涯を終えるのでした。

馮熙の自殺未遂を聞いた孫権

馮熙が自殺未遂を計った事が孫権の耳に入ると、

「匈奴に捕らえられながらも最後まで忠誠を貫いた蘇武(そぶ)と全く同じだ」

と孫権は泣きながら周囲に語ったそうです。

 

 

ちなみに蘇武とは前漢に仕えた人物で、

匈奴へ使者として訪れた時に捕らえられてしまいます。

 

そして蘇武に対して、

「雄羊が乳を出したら帰ってもいいぞ」と言われ、

食べ物も与えられなかった蘇武でしたが、草などを食べてかろうじて生き延びます。

 

その後蘇武に陰ながら援助した人達のお陰で生き延び、

最終的に前漢へ帰る事が許されます。

 

 

ただ捕らえられて帰国するまで19年の月日が経っており、

母は既にこの世を去っており、妻は別の男性の元へ嫁いでいました。

 

なので帰国後に報われたとかではないのですが、

故郷に最終的に帰れたことは確かです。

 

そういう意味で馮熙は、

蘇武よりも悲しい最後だったかなと思いますね。