于禁(うきん)
蒼天航路(7巻139P)より画像引用
于禁は兗州泰山郡の生まれで、
同郷であった鮑信が「黄巾の乱」勃発に伴い、
義勇兵の募集を行った際に加わっています。
ただこの時期の兗州は大変な時期であり、
百万人とも言われる青州黄巾賊が兗州へと雪崩れ込んでいたのです。
「正史」では黄巾賊三十万人、
非戦闘員百万人の合計百三十万人だと書かれてありますが、
まぁ実際はもっと数は少なかったと思われますね。
この時に兗州統治を任されていたのは、
反董卓連合にも参加したこともある兗州刺史の劉岱でした。
ちなみに劉岱は反董卓連合に参加した人物ですが、
反董卓連合にに参加する前に劉岱を兗州刺史に任じたのが董卓というのは余談です。
また「済北の相」であった鮑信が手助けする形で
兗州刺史の劉岱を助けて戦ったわけです。
ちなみに「済北国」も兗州に属する一つの郡になりますね。
また「州刺史」というのは少し厄介なものでして、
統治権はありますが、軍権があるわけではありません。
勿論ですが一応自分自身で動かせる軍勢の所持はしていますが、
八つの郡の太守に命じれるわけではないのです。
あくまで八つの郡が、
自身が治める郡の軍勢のみを指揮できるという構図になります。
例えば劉岱が治めていた兗州を例にとると、
兗州には八つの郡(陳留郡・東郡・山陽郡・泰山郡・済陰郡・東平国・任城国・済北国)がありますが、
これらの郡(国)の軍勢に命じることはできないわけです。
兵士を動かせる権限があるのは、
陳留郡・東郡・山陽郡・泰山郡・済陰郡・
東平国・任城国・済北国のそれぞれの太守のみという感じですね。
そして青州黄巾賊が迫るにつれ、あくまで劉岱は討伐戦を主張しますが、
一方の鮑信は籠城戦を主張したことで意見が分かれてしまいます。
お互いに意見を変えることがなかったあこともあり、
各々の考えを尊重しあう形を取ったのですが、
城から出陣した劉岱が戻ってくることはありませんでした。
何故なら鮑信が心配していた通り、
青州黄巾賊によって討ち取られていたからです。
劉岱が討たれてしまった事で、
「鮑信はどうするべきか!?」と悩んだといいます。
そこで鮑信は東郡太守であった曹操に助けを求めます。
また鮑信は東郡太守としてではなく、兗州刺史であった劉岱に代わる形で、
「兗州牧」として曹操を迎えたわけです。
しかしその戦いの中で鮑信は討死してしまいます。
最終的に曹操が青州黄巾賊を降伏させる事に成功していますが、
残される形になった于禁は、これを機に曹操に仕えることとなります。
曹操の下で戦歴を重ねた于禁
青州黄巾賊との戦いで活躍した于禁は、
その後は曹操配下の武将として活躍していくこととなります。
徐州侵攻戦で活躍したり、豫州で反乱を起こした黄劭を討ち取ったりと・・・
また袁術を攻めた事もあり、領土拡大にも貢献しています。
張繍が偽の降伏をした際に、
典韋・曹昂はじめ多くの兵士を失った時には、
混乱を起こした曹操の青州軍が、
味方から略奪行為が行ったりする行動もあったそうです。
しかし于禁は味方を襲った青州兵を処断しつつ、
張繍の追手への備えをしてから曹操への報告をしました。
一部の青州兵から「于禁が味方を攻撃して裏切った」という報告を受けた曹操は、
確認の為に于禁に使者を送っても、備えができるまで于禁は返事をしなかったと言います。
とりあえず「今は相手への対応をきちんとするのが最優先。
曹操様への弁明など後回し!」といった感じだったのでしょう。
これを後に知った曹操は、「于禁は、古の名将を超えている」と絶賛し、
于禁に対して大きな信頼を寄せていきます。
そして曹操軍の中で名将といえば、
張遼・張郃・楽進・徐晃・于禁になりますが、
曹操が出陣した際には、必ず彼らの誰かを先鋒と殿を任された程だったと言います。
相当な信頼を置いていたのでしょうね。
ちなみにこの時、曹操軍の中で最も高い役職にあったのは、
左将軍に任命されていた于禁で、同列に楽進(右将軍)がいました。
悲劇の分岐点
そんな于禁に悲劇が襲うのは、関羽が攻めてきた樊城の戦いでした。
この時に樊城を守っていたのは、
これも曹操軍きっての名将であった曹仁でしたが、
関羽に城を包囲され、さすがに苦戦を強いられていました。
そこに援軍に送られたのが于禁でした。
しかしこの時、不幸にも漢水が氾濫を起こしたせいで、
于禁軍は戦うこともできないまま、洪水に巻き込まれてしまいます。
※関羽による川を積止めした計略もあってのことだともいわれていますね。
とにもかくにもこれによって于禁軍は、壊滅状態に陥り、
そこに関羽軍が押し寄せてきたため、仕方なく降伏を選択します。
この時に于禁の副将であったのが、龐徳(ほうとく)という武将でした。
※龐徳はもともと馬超の臣下。
龐徳は、結果こそわかってはいたものの、
最後まで降伏せず捕らえられ、処刑されてしまいます。
これを後に聞いた曹操は、
「于禁と知り合って三十年も経つというのに、
危機的状況を前にした龐徳及ばないとは思わなかった」
と嘆いたそうです。
ちなみに司馬懿・蒋済は、
「于禁は洪水のせいでやられたのであって、戦いの上で敗れたわけではない」
と曹操に于禁の弁護もしています。ごもっともなご意見かと・・・。
悲惨な最後
関羽が呉の計略によって捕らえられ処刑されると、
関羽によって捕虜となっていた于禁は呉へ送られる事になります。
そして于禁の帰国が許された時には、
既に曹操はこの世を去り、曹丕の代に変わったタイミングでした。
この時、精神的にかなり疲れ果てていたのでしょうね。
帰国を許された時の于禁は、白髪・白髭になっていたそうです。
帰国した于禁に対して、曹丕は于禁に慰労の言葉をかけるとともに、
曹操の墓参りにいってくるように言葉をかけられます。
しかし、曹操の墓参りにいった于禁に待ち受けていたものは、
于禁が関羽に降伏し、龐徳が降伏を断って処刑されている様子が描かれていました。
これはもちろん曹丕が描かせたものでしょうが、
あまりにもひどい仕打ちじゃないかなと個人的には思います。
これを見た于禁は、自分を恥じ入り、
これがもとで病気になって死去したと伝わっています。
敵将であった関羽でさえ、
降伏した于禁に対して「勝敗は平家の常」と言ってあげたにも関わらず、
それを言ってやれない曹丕は君主として問題があった気しかしません。
于禁死後まで罵られる始末
于禁が死んだ後に贈り名(諡)が送られていますが、
「厲侯」というものでした。
「厲」という漢字は誇れるようなものではなく、
「良くないもの、災いの種」といった意味があり、
于禁は死んで後まで、曹丕らによって罵られてしまったのです。
また魏国建国の功臣として、曹操の廟庭に多くの武将たちが祭られますが、
于禁が祭られる事はありませんでした。
曹操軍を代表する于禁と樊城の戦い以前までに、
同等の評価を受けていた張遼・張郃・楽進・徐晃は、全員祭られているのにです。
ちなみに龐徳も祭られています。
陳寿の評価
陳寿は、張遼・張郃・楽進・徐晃・于禁の中でも、
于禁は法を厳守しており、もっとも威厳があり、剛毅だったと書いています。
ただ最後に、終わりだけが勿体なかったと付け加えて・・・
個人的見解
最後の最後まで戦って死ぬことも立派な事かもしれませんが、
恥を忍んでも主君の元に帰りたいと思い、劉備にも孫権にも仕える事はせず、
これ以上戦えないと判断し、生き残った兵士の事も考え、
最後は恥を忍んで降伏したと思うわけです。
まだ少しでも戦える状態での降伏であれば話もまた違ってきますが、
洪水によってほとんどの兵が溺死してしまい、
生き残った兵達も高地から動いて戦える状態ではなかったのですから・・・。
また曹操も嘆いたとは言ったものの、
これまでの于禁の功績を知ってるだけに、
決して曹丕のような嫌味たらしい仕打ちはしなかったでしょう。
「大変だったな。お疲れ様。よくわしの元へ帰ってきてくれた!」
と心から慰労してあげたんじゃないでしょうかね。
苦労を共にしてきた曹操と苦労を共にしていない二世では、
かけてあげる言葉も大きく変わったでしょうね。
もし曹操が生きている内に帰国が許されていたならば、
少なくともこんな不遇な最後を迎える事だけはなかった気がします。