曹休(そうきゅう)
曹休というと、「曹」という姓から、
曹操の一族かなと思う人も多いかもしれませんが、
曹操との血縁関係はありません。ただ曹操の親戚にあたる人物ではあります。
この曹休は、父親を早くに失ってしまいます。
そこで手を差し伸べたのが曹操であり、自分の息子である曹丕とともに教育します。
曹休は曹操によって「曹休は我が家の千里の駒」と高く評価されています。
曹休は曹真とともに、
曹純が率いていた「虎豹騎」を引き継いで指揮をし、
劉備が漢中へ侵攻してきた際は、張飛・馬超らを武都で破っています。
実際のところ、虎豹騎最盛期を築いた曹純死後は、
曹操直轄部隊だとも言われていますが、
実質虎豹騎の隊長として曹操の代わりに曹真・曹休が指揮していたのかもしれません。
このあたりの資料ははっきりと残っていない為、
はっきりとしない所がありますが、
曹真・曹休が虎豹騎を率いて張飛・馬超を破ったような記述もあるため、
実際曹操の代わりに指揮していたとみる方が自然かもしれませんね。
曹休、周魴の罠にかかる
漢中での戦い後、曹休は対呉対策として呉の前線地域を任され、
多くの戦功をあげていった曹休は、征東大将軍や大司馬に任命されています。
しかし曹休は、最後の最後でやらかしてしまいます。
呉から偽降伏してきた周魴(しゅうほう)を信じ込んでしまうんです。
そして228年、周魴に道案内をさせ、呉討伐へ乗り出すのですが、
偽降伏してきた周魴に石亭までおびき出されてしまいます。
この時、曹休は、荊州や豫洲からも軍勢を集め、
10万の軍勢を引き連れていました。
それだけ今回の呉討伐へかけていたのでしょう。
だからこそ途中で周魴の降伏が嘘だったと気づいても、
10万の兵を頼みに退却することなく、そのまま呉軍と対峙しているからです。
もし騙された事で危機を感じて退却を決断していれば一兵も失わずに済んだと思いますし。
しかし曹休軍にとって不利な石亭におびき出されていた魏軍に勝ち目はなく、
呉軍の陸遜によって大敗を喫してしまいます。
曹休、賈逵を罵る
大敗してしまった曹休ですが、
後から曹休軍に合流していた賈逵は、周魴を疑っており、
それを考えた上で進軍していました。
そしてやはり周魴の罠だったと知ると救援を出し、
このお陰で曹休はかろうじて戦場を脱出し、退却する事に成功しています。
しかし救援を出してくれた賈逵と曹休はあまり仲が良く、
賈逵に対して「今回の敗北は、お前の軍勢が進軍するのが遅すぎたせいだ」と理不尽に罵ったようです。
ちなみに曹休は、
この戦い時に出来た腫瘍がもとでこの年に亡くなってしまいます。
最後の最後で、曹休は少し見苦しい姿を見せた感じもしますね。