虎豹騎(こひょうき)以前の精鋭騎馬隊

虎豹騎とは、

曹操軍の精鋭騎兵部隊のことをいいます。

 

虎豹騎が作られたのは、

袁紹と激突した官渡の闘いが終わった後になります。

 

 

 

虎豹騎が作られるまでは、

曹操軍の騎兵部隊を指揮していたの曹仁です。

 

例えば陶謙討伐であったり、官渡の戦いであったり、

曹仁が率いた騎兵部隊が活躍しています。

 

 

それが少なからず母体となり、

虎豹騎が誕生したと考えるのが自然な流れでしょうね。

曹仁なくして曹操なし

虎豹騎

虎豹騎が作られると、

曹休・曹真が曹操から任されて指揮を取ったようです。

 

しかしお世辞なしに言ってしまうと、

際立った活躍はほどんとありませんね。

 

 

その後に曹仁の弟である曹純(そうじゅん)が、

虎豹騎の指揮を任されるのですが

 

ここで初めて虎豹騎が恐るべき部隊へと成長していくことに・・・

 

 

曹純は部下をや兵士を非常に可愛がったことで、

曹純に厚い信頼を寄せ、心を許していったといいます。

 

だからこそ部下から絶大な信頼を得た曹純に率いられた虎豹騎は、

曹純の時代に全盛期を迎え、大活躍していったのです。

袁紹の遺児との戦いでの活躍

官渡の戦い後から少しして袁紹が病死すると、

袁紹の遺児との闘いに突入していきます。

 

袁紹遺児

  • 袁譚(えんたん)
  • 袁尚(えんしょう)
  • 袁煕(えんき)

 

 

205年に袁譚が籠もる南皮に迫った際には、

 

最終的に袁譚を討ち取ったのは、

曹純率いる虎豹騎だったりします。

 

 

曹純率いる虎豹騎に追い詰められた袁譚は、

死ぬ間際に次の言葉を残して・・・

「私ならお前(曹純)に、

豊かな生活を提供してあげることができるぞ!」と・・・

 

この戦いに参加した曹純は、虎豹騎の部下達に的確な指示を出した結果、

虎豹騎が存分に力を発揮することができたと言われています。

袁譚・袁煕・袁尚 -袁家滅亡を加速させた袁紹の遺児達-

鳥丸族討伐&長坂の戦いでの活躍

袁紹の遺児との戦いで、

袁譚を討ち取るなどの活躍を見せた虎豹騎部隊ですが、

 

その延長線上に近い形で鳥丸族(烏桓族)

207年に北方の異民族である鳥丸討伐戦でも、

鳥丸王である蹋頓(とうとん)を生け捕っています。

 

白狼山の戦いと呼ばれるものですね。

 

 

 

翌年の208年には、

曹操が南方制圧を開始するわけですが、

 

曹純が虎豹騎を率いて、

劉備を長坂で打ち破る活躍を見せています。

 

そして劉備の二人の娘を捕らえる活躍も・・・

 

 

 

他にも劉備は豊かな土地であった江陵に向けて逃げていたのですが、

曹純率いる虎豹騎が先に江陵に到着して占領たことで、

 

劉備の計画も大きく崩れたりもしていますね。

潼関の戦いでの最後の活躍

曹操の大事な戦いの場に数多く参加していた曹純の虎豹騎部隊ですが、

 

その最後の戦いとも言えるのが、

馬超・韓遂らとの潼関の戦い(211年)でしょう。

 

きちんとした言い方をすれば、

馬超・韓遂連合軍ではなく、関中十部の連合軍といった方が正しい言い方ですけどね。

 

馬超・韓遂らを含んだ豪族による反乱ですから・・・

 

 

 

 

この潼関の戦いは、曹操が命を落としそうになった戦いでもあるのですが、

虎豹騎に出陣命令が出されています。

 

 

虎豹騎はこの戦いでも大活躍を見せることになります

 

曹純率いる虎豹騎部隊は、馬超・韓遂軍を打ち破っただけでなく、

馬超・韓遂軍の武将である成宜(せいぎ)・李堪(りかん)を討ち取るまでの活躍を見せたのでした。

韓遂の手下八部(関中八部)

曹純の死×虎豹騎の行方

虎豹騎の力を最大に発揮させたのが曹純でしたが、

 

曹純がこの世を去ると、

「曹操は次に指揮する者を誰にするか!?」

非常に悩んだそうです。

 

 

しかし最終的に曹操が下した判断は、

「曹純ほどに虎豹騎を使いこなせる者が今後出てくるのか・・・

どう考えても無理だろう!」

といったものでした。

 

 

そして曹純が鍛え上げた虎豹騎は、

曹操の直轄軍に組み込まれることとなったのでした。

 

 

最後に余談ですが、曹操の精鋭騎馬隊が虎豹騎ならば、

精鋭歩兵部隊もいたりします。

 

許褚率いる「虎士」と言われた部隊ですね。

 

 

興味ある方はこちらの記事に「虎士」について記載したりしています。

曹操の精鋭歩兵部隊「虎士(こし)」