董和 –董允の父親(とうわ/とうか)

董和は当初劉璋に仕えていた人物でしたが、

劉備が入蜀を果たすと、董和は劉備に仕える事になります。

 

董和は清廉潔白であったことから、

劉備からも信頼されて、重要の役割をを任されることになります。

 

 

そして諸葛亮からは、

「人は自らと違った考えを持つ人物を大事にしなければならない。

 

その理由は簡単で、自分の過ちを指摘してくれるからであり、

そうであればこそ完璧に仕事をこなしていけるものである。

 

まさに董和は私の過ちを指摘してくれる者であり、

だからこそ私はいつも助けられている。」

と董和に対して高い評価をしていたりします。

 

 

そんな董和には董允とういんという優れた息子がいました。

しかし董允の友人でもあった費禕ひいも同じように高い評価を受けた人物でした。

 

 

董和は自分の息子である董允が優れた子である事は理解していましたが、

息子と費禕を比較した際にどちらが優れているのかは分からずにいたようです。

 

 

しかし後に許靖の息子が亡くなった時に、それが判明する事となるのでした。

許靖の息子が亡くなった際の費禕&董允

許靖の息子が亡くなったことで葬儀が行われる事となります。

その際に友人関係にあった董允と費禕は共に葬儀に赴こうとします。

 

この時に董允は父親の董和に対して、

「葬儀に参列する為の馬車が欲しい」と願い出たわけです。

 

息子からの願いに、

董和は小さい馬車を董允に与えたのでした。

 

 

董允は「小馬車に乗っての参列は恥ずかしい」と思って、

馬車に乗る事を躊躇してしまいます。

 

一方の費禕ですが、

そんな事を気にせずに馬車に乗り込んだのでした。

 

 

費禕に続くように董允も馬車に乗り込むと、共に許靖の息子の葬儀場に出席したわけですが、

そこには立派な馬車が沢山と並んでいました。

 

 

それらの馬車を見た董允は、自らが乗っていた馬車と比較した事で、

改めて恥ずかしい気持ちになってしまったそうです。

 

しかし一方の費禕はというと、そんなことを気にする素振りは全くなく、

堂々とした態度で落ち着いていました。

 

 

後にこの時の二人の様子を聞いた董和は、

何かを悟ったように董允を呼んで話したといいます。

 

その言葉は次のようなものでした。

「今まではお前と費禕はどちらも優れていて、

どちらが優秀な人物か判別できなかった。

 

しかし今回の葬儀の件でどちらが優れているか分かってしまった。

結果として優れているのはお前ではなく、費禕であった。」と・・・

費禕との才能の差を思い知った董允

費禕は記憶力が非常に良く、どんな書物であってもしばらく見ただけで、

書かれている内容をきちんと理解することができたといいます。

 

またそれだけにとどまらず、覚えた内容を二度と忘れる事がなかったのです。

 

 

これは費禕が尚書令の仕事をこなしていた時の逸話になりますが、

費禕は朝夕に仕事をこなしていたようです。

 

 

しかし仕事一辺倒の人物だったわけではなく、

 

仕事の合間に訪問客の対応をしたり、

他の空いた時間を利用して友人と飲食することもありました。

 

つまり仕事をきちんとこなした上で、

プライベートを充実させていたということですね。

 

 

後に費禕に代わって、董允が尚書令を任される事になります。

 

董允は費禕が尚書令をやっていた時の事をよく覚えており、

自らも費禕のように仕事とプライベートを充実させようと考えていたようです。

 

 

しかし現実は董允が想像したいようにはならず、

十日も経たずに仕事が溜まってしまいます。

 

董允がさぼっていたというわけではなく、

それほど多くの仕事をこなさなくてはならなかったのです。

 

 

その現実に対して董允は、プライベートを充実させることを断念し、

仕事に専念することで、やっと仕事をこなせたといいます。

 

 

この現実を目のあたりにした董允は、

「二人の才能に、

これほど差があるとは思いもしなかった・・・」

と嘆いたようです。

 

それと同時にかつて父親が言っていた意味を、董允はやっと理解したといいます。

 

 

 

ただ費禕に劣っていたからとひねくれるような董允ではなく、

 

任された仕事をしっかりとこなし、

費禕を認めた上で自分にできることで国の為に尽くしたのでした。

 

 

また董允が劉禅を支えている間、劉禅はたがを外すこともなく、

黄皓の勝手にさせることもなかったお陰で、中枢の政治が乱れることもなかったのです。

 

その為に当時の人々は、

諸葛亮・蒋琬・費禕に董允を合わせて「四相」と呼んだといいます。

費禕 -蜀漢を支え続けた最後の「四相(四英)」-