譙周(しょうしゅう)

譙周は、益州巴西郡の出身で、

貧しい家の出身でしたが、学問に励んでいました。

 

そして譙周は蜀を代表する儒学者へ成長していくことになります。

譙周の元で学んだ者に、陳寿や羅憲がいたりします。

 

また譙周の身長は八尺あったそうです。

この時代の一尺は22cm〜23cmほどあったといわれているので、

180cm程あったということなので、この時代かなりの長身だと言えます。

 

そんな譙周ですが、突然誰かに質問されたりしたことに対して、

うまく答えたりするのが苦手だったようで、頭の回転は遅かったようですね。

劉備・劉禅に仕官

劉備が入蜀を果たすと、譙周は劉備に仕え、

劉備が皇帝になる際に上奏した一人に数えられています。

 

劉備が亡くなると、劉禅の勧学従事に任命されます。

分かりやすい言い方をすると、劉禅の教育係みたいな仕事ですね。

 

 

ただこのあたりは少しあやふやで、

譙周伝には、劉禅の時に諸葛亮に採用されてから、

劉禅の勧学従事になったと書かれています。

 

なので劉備のことが描かれている先主伝とは、

譙周に関する記述が少し違うんですよね。

諸葛亮の死

譙周は、諸葛亮が亡くなった事を知った譙周は、

家から飛び出して孔明が亡くなった五丈原の蜀の陣地まで急いで向かったそうです。

 

普通に考えたら「どんだけ早いんだよ」とつっこみたくなりますし、

蜀に諸葛亮死去の報告が届いてからの移動なんで、

その点を考えても普通は間に合わないと思うんですよね。

 

諸葛亮が亡くなった後、蜀軍は退却してますし。

まぁそれだけ迅速な行動だから結果的に間に合ったのでしょう。

 

実際譙周はこれが評価されて、

諸葛亮の代わりに政治を取り仕切った蒋琬によって、

益州の学者を取りまとめる典学従事に任命されていますし。

譙周、姜維の北伐を非難する

譙周は、有名な濡学者ではあったものの、

これといった功績がありません。

ただこれは、政治に関与してなかったからという理由が大きそうです。

 

譙周の名前が良く出てくるのは、

諸葛亮死後の完全に蜀末期頃になります。

 

蒋琬・費禕らがなくなると、姜維が諸葛亮の意志を継ぐ形で、

北伐を何度も繰り返していきます。

 

しかし大きな成果もあげられないまま、

蜀の国力が大きく低下していってしまいます。

 

この現状に危惧した譙周と陳祗(ちんし)は、

北伐がどんなに国力を低下させ、無意味なものであるかを二人で議論し、

それを「仇国論」としてまとめています。

譙周(しょうしゅう)著書の「仇国論」はどんな内容だったの?

 

これを読んだ姜維は、この「仇国論」が言いたいのは、

まさに現在、自分が行っている北伐の事だと気づきます。

 

そしてそれを読んだ258年以降、262年まで北伐を一切行っていません。

それほど「仇国論」の内容に衝撃を受けたのでしょう。

劉禅に降伏を勧める

 

263年になると、

鍾会・鄧艾率いる魏軍が蜀に攻め込んできますが、

 

この時の蜀は国力が低下していて、

黄皓などの腐った宦官が政治に介入したりしてたのもあり、

もうめちゃくちゃな状態でした。

 

そして連携もままならないまま、鄧艾が別ルートから侵攻を開始し、

成都城まで攻め込まれてしまいます。

 

この時蜀では、色々な意見が飛び交っていましたが、

大きく言うと以下の4つです。

  • 最後まで徹底抗戦
  • 南方へ逃げて体制を整える
  • 呉へ逃亡する
  • 魏へ降伏する

 

その中でも以下の2つを推す者が非常に多かったようです。

  • 「南方に逃げて体制を整える案」
  • 「呉へ逃亡する案」

 

 

この時にまっさきに声を大にしたのが譙周でした。

「今すぐに魏へ降伏しましょう!!」

 

譙周は劉禅はもとより、

反対する意見の者達に向けて、その理由を語りだします。

譙周の降伏の理由

譙周は劉禅らに

次のように魏へ降伏する理由を語ります。

 

「古来より、他国に身を寄せながら、皇帝であったものはいません。

だから魏に降伏しても呉に降伏しても、劉禅様はどちらかに仕えることになるんです。

 

どちらも国の体制が大きく変わらないのなら、

普通に考えて魏が呉を倒すことがあっても、呉が魏を倒すという事は考えられません。

 

どうせどちらかに降伏するというのなら、

小国の呉よりも大国の魏の方がまだましでしょう。

 

それにもし呉に降伏して、その後に呉が魏に服従した際は、

劉禅様は2回に渡って恥辱を受けてしまうことになります。

だから降伏するなら魏しか考えられないのです。

 

 

また南方に逃げて体制を整える案ですが、これまで全く準備してこなかったのに、

この緊急時に南方に向かうのは危険しかありません。

 

異民族らによって襲われるかもしれませんし、

劉禅様の身に何が起こっても不思議ではありません。

そういう点からも南方への逃亡はお勧めしません。

 

 

また魏の鄧艾軍は確実に劉禅様の降伏を受け入れます。

 

理由は簡単で、まだ呉が降伏していないからです。

そんな情勢下であるからこそ、降伏は必ず受け入れられます。

 

そして降伏した劉禅様を、

魏は必ず諸侯に封じられて礼遇してくれるはずです。

 

 

もしも魏へ降伏したのに、

劉禅様が諸侯に封じられず、軽んじられることがあれば、

 

私自身が洛陽へ乗り込んで、降伏した君主に対する礼儀について、

過去の事例を持ち出して必ず相手を説得してみせます。」

 

 

 

これを聞いた劉禅の周りの者達は何も言えず、

劉禅自身も譙周の考えにだいぶ傾いていくことになります。

しかし劉禅は南方で体制を整えるという考えも捨てきれずにいました。

 

それに対して譙周は、

南方へ行く事で起こりうる悪い可能性をたんたんと説明し、

それを聞いた劉禅は魏へ降伏する事を決意したのでした。

 

魏へ降伏した劉禅でしたが、譙周の言った通りになり、

劉禅に爵位と封土が与えられて諸侯として礼遇されています。

 

またそれ以外にも、一万戸の領地を与えられ、

その他に絹一万匹と百人の召使いが劉禅に与えられます。