「仇国論」とは?

「仇国論」は蜀に仕えた譙周が書いたもので、

ここに書かれている内容は、過去の事例を用いながら構成されています。

 

そして譙周は、この「仇国論」を通して、

何度も北伐を行い、国を疲弊させている姜維について、

間接的に批判しています。

 

その「仇国論」に書かれてあった内容は、

おおむね次の感じになっています。

劉禅に降伏を勧めた陳寿と羅憲の師、譙周(しょうしゅう)

因余と肇建

因余(いんよ/小国)と肇建(ちょうけん/大国)という二つの国があり、

お互いに競い合っていた敵国同士でした。

 

小国であった因余には、

高賢卿(こうけんけい)伏愚子(ふくぐし)という人物がおり、

二人は因余の将来について話し合っていました。

高賢卿と伏愚子

ある時、高賢卿が伏愚子に質問しました。

「今現在、国家の情勢は定まらず、誰もが心労を重ねている。

小国が大国に勝つには、過去どういう方法を用いたのだろうか?」

 

そう質問された伏愚子は、

「小国が大国に勝った例は、

私の知る限り、大国になった側は傲慢になっている。

 

逆に小国は、大国とは真逆で、

国の将来を常に案じ、常に良い方向で国について考えている。

 

傲慢な国では反乱が起こるものだし、

逆に国の事を考えている国は反乱など起こらず、政治が行き届いて安定した国になる。

 

 

実際に周の文王は民を大事にした結果、殷を破っている。

 

また越の句践(こうせん)も、民や臣下らと共に苦しんだ結果、

大国であった呉の夫差(ふさ)を打ち破ることができたのだ。

※呉越同舟・臥薪嘗胆の言葉が生まれた時の話

 

小国が大国に勝つ方法は、この場合だろう」と答えます。

高賢卿の言葉

この伏愚子の言葉に対して、

「大国であった項羽と小国であった劉邦が互いに争った事があり、

戦いが長く続き、どちらの国も疲れ果てていた。

 

そんな時に項羽と劉邦は話い合い、

鴻溝を境にし、互いに戦いを中止した。

 

そして互いに、国に戻って民の為の政治をしようとしたのです。

 

しかし劉邦の参謀であった張良が、

お互い国が安定してからでは項羽を討つ事は不可能だと述べます。

 

その結果、二人が交わした約束を劉邦は反故にし、

劉邦は項羽の弱点をついて討ち破り、項羽を倒したのです。

 

その点から見ても分かるように、肇建は大国でも必ず弱点があるものだ。

私はその弱点をついて、私は肇建に勝利したい

と高賢卿は反論します。

伏愚子の言葉

伏愚子は高賢卿の言葉を聞いて答えます。

「殷から周に国が変わった時、周王は代々尊敬され、

君臣の関係は揺るがず、国は非常に安定し、民衆も国が変わらない事を切に願っていた。

 

もしこんな安定した時代に劉邦が生きていたとすれば、

項羽の時のように天下を治める事は不可能だったでしょう。

 

 

秦が統一した時は、労役を課しまくった事で民衆は苦しみ、

秦への不満が国中に充満していた。

 

だからこそ、秦に反発した者達が次々に反乱を起こして領地を奪い合った。

そういう時代だったからこそ、劉邦は天下を治める事ができたのだ。

 

しかし今の世の中、因予・肇建のどちらの国も世代が代わっており、

秦の時のように不安定な世の中ではなくなっている。

 

まさに春秋戦国時代の時のような六国があった時に、

似たような情勢になっている。

 

だからこそ、我らの主人が周の文王になれる事があったとしても、

劉邦になることは非常に難しい世の中だ。

 

 

だからこそ、今は肇建が民衆を疎かにし、

傲慢になっていくのを待つのが最善の策なのだ。

 

大国といえど、反乱が起こりだすと国の力は自然と弱まっていく。

 

だからこそ目先の小さな利益に惑わされることはない。

そのチャンスが捲ってきた時に、こちらは初めて行動を起こせばよいのだから。

 

周が殷を一度の戦いで滅ぼすことができたのは、

その時期を見据え、ここぞというタイミングまで慎重に待ったからに他ならない。

 

 

その時期を疎かにし、

あくまで武力に頼って何度も討伐の軍を起こせば、

 

逆にこちらが国の崩壊を招いてしまい、そのことでこちらが苦難に陥る事でもあれば、

もう誰も国が滅ぶ様を止める事ができなくなる。

 

もし神のような戦略を用いて川を渡り、

山を越えて洛陽へ攻め込むことができる者がいればまた話は変わるが、

愚かな私では到底そんな事はできませんけど。」

譙周が「仇国論」を通して姜維に言いたかった事

 

因予(小国)は蜀の事であり、

いわずもがな肇建(大国)は魏のことです。

 

そしてそこで国の事を論じた高賢卿と伏愚子の二人は、

陳祗(高賢卿)と譙周(伏愚子)になります。

 

そして蜀が魏を倒す為の方法を、

過去の事例を参考にし、今置かれている蜀の立場を示したのです。

 

 

そしてむやみあたりに北伐を続け、

民衆を苦しめ、国を疲弊させていた姜維を間接的に批判したのです。

 

この「仇国論」を呼んだ姜維は、

まさに書かれている内容が現在の姜維の状況に瓜二つであり、

姜維は、その後4年間軍を動かすことをしませんでした。

 

しかし時すでに遅く、蜀は疲弊しまくっており、

黄皓のような宦官が力を持ってしまった事で政治は腐敗し、

その結果、蜀滅亡を避ける事はできませんでしたが・・・。