甘寧(かんねい)

甘寧のもともとの出身地は益州でしたが、

 

益州にいた頃の甘寧は、無法者達を集めては、

強盗・人殺し等なんでもありの山賊生活を行ってました。

 

ちなみにですが、山賊ではなく、

長江で海賊をやっていたという話もありますね。

まぁ似たようなもんです。

 

とりあえず甘寧はこんな生活を20年近く続けていたわけです。

 

 

甘寧らは、背中側の鎧に水牛のしっぽの指物をさしており、

仲間が常にどこにいるか分かるように目印としていたそうです。

 

甘寧は、腰に大きな鈴をつけており、

甘寧が歩くたびに鈴の音がカランコロンと鳴っていました。

 

その為、鈴の音が聞こえてくると、

そのあたりの住民達は、「甘寧が来たぞ!!」と恐れたといいます。

甘寧の気持ちの変化

しかしある時を境に、甘寧は今の生活を続けていてはいけないと悟り、

文字を読めるようになるまで勉強します。

 

 

そして甘寧は子分らを連れて劉表に仕官するのですが、

山賊まがいの甘寧らは、劉表らから信頼される事もありませんでした。

 

黄祖の下につけられた時も、

黄祖からの評価も同等だったようです。

 

甘寧は劉表を完全に見限り、孫権に仕官するわけですが、

この時甘寧が呉へいけるように助けてあげたのが蘇飛(そひ)でした。

受けた恩には行動で報いる(孫権・周瑜・呂蒙)

なんとか孫権に仕える事ができた甘寧ですが、

新参者である甘寧が最初から重く用いられるなんて普通はありえません。

 

しかし呉に尽くしてきた周瑜や呂蒙が、

「甘寧は力を持っている人物なので重く用いてください」

と孫権に願い出たそうです。

 

周瑜や呂蒙の推薦であるからこそ、

孫権も二人の発言をつっぱねることなんてできるはずもなく、

甘寧を重く採りたて、旧臣と変わらぬ待遇をしました。

 

 

新参者である自分自身を推薦してくれた周瑜・呂蒙、

その言葉を聞いて重く採りたててくれた孫権、

甘寧はこの恩に報いるべく、かつて仕えていた劉表を攻めるように進言します。

 

「劉表という男が先を見る力がなく、

劉表の子である劉琦・劉琮はもってのほかである。

曹操に荊州が奪われる前に、孫権様が荊州を制圧すべきです。

 

その為には、亡き孫堅様の仇でもある黄祖が守る江夏に攻め込み、

まずは攻略しましょう」

張昭を言い負かす

これに対して重臣であった張昭が反論します。

「国内も安定していないのに、他国へ攻め込むなどもってのほかだ」

 

これを聞いた甘寧は、

「あなたは漢の高祖(劉邦)を支えた、

蕭何(しょうか)のように留守を預かる立場なのに、

 

張昭様が留守を任せられた際に、反乱が起こるのが怖いのですか!?」

と物おじせずに張昭に言葉を返します。

 

これに張昭は言葉をうまく返せず、

また孫権自身も甘寧のやりとりに感心したそうです。

生涯かけて剛直な態度を貫いた呉の御意見番「張昭」

受けた恩には命をかけて報いる(蘇飛)

甘寧の言葉を聞き入れた孫権は、

208年に江夏に侵攻し、黄祖を討ち取っています。

孫家三代(孫堅・孫策・孫権)を翻弄した黄祖

 

この戦いで、甘寧にとって恩があった蘇飛も捕らえられてしまいます。

 

この時甘寧は、蘇飛から以前受けた恩を返すべく、

甘寧は涙を流しながら自分の命と引き換えに蘇飛の命を助けてくれるように願い出ます。

甘寧の熱意に討たれた孫権は、蘇飛を許しています。

 

乱暴者であった甘寧ですが、受けた恩には恩で返し、

その為ならば自分の命をかけてまで報いようとする甘寧らしい話ですね。

甘寧VS曹仁

 

赤壁の戦いで劉備・孫権連合軍が曹操を降すと、

呉軍は荊州へ更に侵攻します。

 

この時甘寧は800人~900人程度で曹操領であった夷陵の城を落とします。

しかし曹仁が甘寧の軍勢が少数だと分かると、5000人程度の兵で一気に攻め立てます。

 

曹仁は曹操軍きっての名将でしたが、

甘寧は曹仁の攻撃を味方の援軍がかけつけるまで守ったのでした。

曹仁なくして曹操なし

 

ちなみにこの時、甘寧らは、沢山の矢が城内に打ち込まれる中、

兵士達と楽しく談笑しながら応戦していたそうです。

 

無法者の親分だっただけに、肝っ玉座りすぎです!

濡須口の戦い(第二次)での甘寧奇襲隊

 

曹操軍が10万の兵で濡須に攻め込んできます。

 

実際曹操は誇張して40万の兵で攻め込んできたと流言を流していました。

まぁ自軍を強く見せる為に、戦いの際はよく行われる話ですね。

 

 

この時甘寧は、

「精鋭100人だけで曹操軍に夜襲をしかけ、相手の出鼻をくじいてやる」

と言い残し、奇襲部隊を編成します。

 

さすがにこの作戦は無謀で、全員討死もありえただけに、

この作戦に同調しない者もいました。

 

そういう者達を前に、

「孫権様から大事にされてる俺でさえ、死を覚悟して国に報いようとしているんだ。

ましてや自分より大事にされてないお前らが命を惜しまないでどうするんだ!!」

と兵士達を鼓舞します。

 

この命がけの奇襲は大成功し、

曹操軍の出鼻をくじくことに成功したのです。

 

 

この成果を聞いた孫権は、

「曹操の元には張遼がいるが、私の元には甘寧がいる」

と言って、甘寧を褒め称えます。

 

この戦いで、甘寧の名が広く知れ渡る事になります。

しかしそれから間もなくして、甘寧はこの世を去っています。

三国志演義での甘寧

甘寧は正史同様に、無法者を引き連れた海賊として登場します。

甘寧が率いた海賊は、「錦帆賊」と呼ばれたそうです。

 

赤壁の戦いや濡須の戦いで活躍しています。

 

 

ちなみに甘寧が劉表に仕え、黄祖配下だった際に、

孫権らが攻めてきた際に、淩統(りょうとう)の父親であった淩操(りょうそう)を、

得意の弓で討ち取ったことがありました。

 

父を仇と思って嫌っていた淩統でしたが、

甘寧に命を救われると淩統は甘寧に心を許し、その後の二人は親密な関係になっています。

 

 

また甘寧の最後は、

劉備が関羽の仇を討つべく呉に攻め込んできた際、

異民族を引き連れて劉備の味方をした沙摩柯(しゃまか)に矢で討たれて息絶えてます。

陳寿の評価

三国志正史を書いた陳寿は、次のように甘寧を評価しています。

 

「甘寧は乱暴者でよく人を殺しており、この性格は生涯治る事はなかった。

ただ爽快で肝が据わった人物で、その上有能な者を大事にし、多くの勇敢な兵士を育てた。

兵士らは、そんな甘寧の為によく応えた。」