袁紹と袁術の対立激化

反董卓連合崩壊後、

袁紹と袁術は同族であったにも関わらず、

対立が激化していきます。

 

袁紹は劉表と同盟を結び、

袁術は公孫瓚と同盟を結びます。

 

そして袁術は、孫堅に袁紹と同盟を結んだ劉表を攻めるように命令します。

 

ちなみに孫堅は、袁術配下です。

なので孫堅はその命令に従った形です。

※袁術から孫策が独立するまでこの主従は基本続きます。

黄祖VS孫堅

孫堅が攻めてきたことで、

樊城で劉表の家臣である黄祖が迎え撃ちます。

しかし黄祖は、孫堅にあっさりと破れてしまいます。

 

黄祖は劉表のいる襄陽に逃げ込み、

孫堅軍は襄陽を包囲します。

 

 

孫堅軍に恐怖を感じた劉表は、

黄祖に命じて、兵を集めてくるように指示を出します。

 

指示を受けて襄陽を出た黄祖ですが、

この動きは孫堅に読まれてしまい、山の中に隠れます。

孫堅は、黄祖を殲滅する為に自ら攻めかかります。

 

これに対して黄祖は、矢を放って抵抗します。

これが黄祖にとって幸運にも孫堅に的中し、孫堅は討死してしまいます。

蒼天航路(6巻224P&225P)より画像引用

 

主人である孫堅を失った孫堅軍は壊滅し、

生き残った者達は、袁術の元へ撤退しています。

三国志演義での記述

三国志演義では、孫堅が討ち取られた後、

孫堅軍の黄蓋によって黄祖は捕らえられています。

 

そして黄祖の釈放を条件に、

孫堅の屍を返してもらい、埋葬されています。

 

正史の方では、

黄祖が捕らえられたという記載はありません。

黄祖VS孫策

 

孫堅が死んだ後、

黄祖は江夏太守に任命されます。

 

そして孫堅亡き後、息子の孫策が江東で勢力を拡大し、

父の仇を討つために、黄祖が守っていた江夏へ攻め込みます。

 

この時、孫策軍は、

孫堅四天王であった程普・黄蓋・韓当だけでなく、

周瑜・呂範等そうそうたる面子を率いています。

 

「絶対に黄祖を討ち取るぞ!」という思いが

それだけ強かったのでしょう。

 

 

これによって黄祖軍は大被害を受けてしまいますが、

それでも黄祖は、江夏を守り通しています。

黄祖VS孫権

孫策がこの世を去り、弟の孫権が跡を継ぎます。

 

そして孫策の意志を継いで、

203年に孫権も父の仇である黄祖討伐に向かいますが、

黄祖はまたしても江夏を守り抜きます。

 

 

この時、黄祖の家臣に甘寧という武勇に優れた武将がいました。

甘寧は海賊出身で、船の戦い方には慣れていました。

 

その甘寧の活躍によって、

孫堅軍の凌操(りょうそう)を討ち取られています。

 

そしてそれだけでなく、この時期に、

江東で異民族の「山越」が反乱を起こします。

 

孫堅は、山越の対応もしなければならず、

黄祖討伐を断念して退却します。

 

この戦いで孫権軍を痛めつけた甘寧でしたが、

黄祖に愛想を尽かし、同年に孫権の軍門に降っています。

孫権、黄祖を討つ

208年、孫権は二度目の黄祖討伐の為に、

江夏に攻め込みます。

 

孫堅・孫策・孫権と世代を超えて何度も攻められた黄祖ですが、

遂に黄祖の命運も尽きます。

 

そして黄祖は、孫権の追手から逃げ切れず、

馮則(ふうそく)に討ち取られています。

 

ちなみに三国志演義では、

黄祖に仕えていた甘寧によって、黄祖は討ち取られています。

黄祖討伐の立役者「董襲」

黄祖の評価

一言でいうと、黄祖の評価は低いです。

 

KOEIのゲームでの能力値も、

大体どのバージョンでも低くなっています。

 

度量も狭く、その為に甘寧に愛想を尽かされてますし、

人間性にも問題はあったと思います。

 

 

しかしなんだかんだで、

孫堅・孫策・孫権と三代の攻撃を防いできたのは事実ですし、

なにかしら秀でたものはあったと個人的に思います。

 

運だけで彼らの攻撃を防ぎ続けることはできないでしょうし、

そもそも、そんな甘い時代じゃなりません!

 

 

実際正史で黄祖の名前が出てくるのは、

「呉志」という呉の歴史が書かれたものにばかりです。

 

ここでは何度も黄祖を破っていると書かれていますが、

自分達を良く見せようと誇張された可能性も高いと思います。

 

そうでなければ、江夏はとっくに陥落して、

黄祖は討ち取られていると思います。

 

分かっている事は、黄祖が孫堅を討ち取り、

報復に燃える孫策の攻撃、孫権の攻撃(1度目)で江夏が陥落しなかったという事実。

 

この結果が私にとっては、全てのような気がします。

評価の見直しをして欲しい武将の一人です。