魏では司馬昭が実権を握っていた頃、
魏の皇帝であった三代目曹芳(そうほう)、四代目曹髦(そうぼう)を凌駕しており、
魏で一番偉いはずの皇帝が、臣下であった司馬一族に好き勝手にされている状況でした。
それを見かねた諸葛瑾・諸葛亮の遠い親戚にあたる諸葛誕は、
この事態を苦々しく思い、司馬昭を討つべく反乱を起こします。
これは決して曹家に対してではなく、
本来の皇帝第一主義の魏の状態に戻す為の反乱でした。
この反乱は結局鎮圧されてしまいますが、
今回はその諸葛誕の子であった諸葛靚について紹介したいと思います。
目次
諸葛靚(しょかつせい)の父、決起!
諸葛靚の父である諸葛誕は、
司馬昭が皇帝をないがしろにしている現状を許せず、
司馬昭を討とうと兵を挙げ、表向き魏に反乱を起こします。
しかし当時の魏皇帝であった曹髦(そうぼう)からしてみれば、
司馬一族の専横から救ってくれるかもしれない諸葛誕は希望のヒーローだったのです。
もちろん表向き、曹髦が諸葛誕を応援するわけにはいきませんが・・・
この諸葛誕の反乱は10万以上の大規模なものでしたが、
単独で司馬昭を討つ事は無理だと分かっていたので、呉の力を借りる事を考えます。
諸葛誕が討たれ、諸葛靚は呉に仕官
諸葛誕は、呉からの信用を得るために、
子であった諸葛靚を人質として呉に送っています。
諸葛誕の反乱が失敗に終わると、諸葛誕は処刑されてしまいます。
曹髦から見れば、ヒーローであった諸葛誕ですが、
司馬昭からしてみればただの反乱になるわけでです。
「勝者が歴史を作る」というように鎮圧されてしまえばそれまでの話で・・・
父の死を聞いた諸葛靚は、帰る場所を失ってしまい、
そのまま呉の孫亮に仕えることになります。257年の出来事でした。
孫晧に重く用いられる
孫亮が孫綝(そんちん)によって廃位させられる事件が発生し、
その後孫休が即位します。
諸葛靚は孫休の時代にはそれほど重く採りたてらることもありませんでしたが、
孫休が亡くなると、孫晧(そんこう)が跡を継ぎます。
そして諸葛靚は孫晧によって重く採りたてられ、
孫晧が建業から武昌に遷都した際には、
旧都になった建業の守りを丁固(ていこ)と共に任される事になります。
施但(したん)の反乱
丁固と共に建業の守りを任されていた諸葛靚ですが、
この時ある事件が発生します。
孫晧の悪政に不満を抱いた住民を引き連れ、
施但(したん)が孫晧の弟にあたる孫謙を脅して味方に引き入れ、
孫晧に代わって孫謙(そんきょ)を皇帝にするように迫ったのである。
この対応に丁固と諸葛靚があたり、
施但の率いた民衆らは武装もしていなかった為、簡単に蹴散らされてしまいます。
無事に鎮圧に成功した二人は、孫謙を無事に保護することに成功します。
しかし孫晧は、孫謙が理由はともあれ賊に与した事を許さず、
孫謙を毒殺してしまいます。
実際は孫謙自ら自害したという話もありますが、
「呉書」には、孫晧によって毒殺されたと残っています。
晋の6方面による呉侵攻
279年、司馬炎は天下統一を果たす為、
呉への侵攻を開始します。
- 杜預(とよ)に荊州軍を指揮させ、江陵より侵攻させる
- 王濬(おうしゅん)・唐彬(とうひん)に益州軍を指揮させ、長江を下り侵攻させる
- 司馬伷(しばちゅう)に徐州軍を指揮させ、涂中(とちゅう)より侵攻させる
- 王渾(おうこん)・周浚(しゅうしゅん)に揚州軍を指揮させ、横江・牛渚から侵攻させる
- 王戎(おうじゅう)に豫洲軍を指揮させ、武昌より侵攻させる
- 胡奮(こふん)に荊州の一部の兵を率いて、夏口より侵攻させる
この時に諸葛瞻は、
呉の丞相であった張悌(ちょうてい)に付き従って出陣し、
6方面の一角である王渾(おうこん)・周浚(しゅうしゅん)の軍と対峙します。
そして両者が激突する事になるのですが、
張悌・諸葛靚らはこの戦いで惨敗を喫してしまいます。
敗残兵をまとめた諸葛靚は、張悌と共に撤退を呼びかけますが、
張悌は「呉と命運を共にする者が一人くらいいてもいいんじゃないのか!」と言い残すと、
張悌は諸葛靚に別れを告げ、敵に突撃して玉砕しています。
そして、別方面から侵攻していた王渾(おうこん)軍が長江を下り建業へ迫った事で、
孫晧は降伏し、晋は天下統一を果たしました。
その後の諸葛靚
晋が天下統一を果たすと、
諸葛靚は仕方なく晋に降伏しますが、その後すぐに隠遁して、
自由気ままな生活を送るようになりました。
ただ司馬炎と諸葛靚は、実は幼馴染であったこともあり、
諸葛靚を司馬炎の側近にあたる侍中に任命しようと何度も試みますが、
諸葛靚はその誘いに応じる事は最後までありませんでした。
父である諸葛誕を倒した司馬昭、
そしてそ司馬昭の子であった司馬炎からの誘い、
諸葛靚は幼馴染みではあったものの、
父への恨みを生涯忘れる事はなく、呉への忠義の心を忘れず、
最後まで自分の意志を貫いたのでした。
司馬炎と諸葛靚
諸葛靚の父であった諸葛誕は魏の重鎮であり、
司空という三公の役職まで昇りつめた人物でもありました。
そのあたりのことからも、司馬昭の子であった司馬炎とも仲が良かったようです。
そういう縁もあり、司馬炎は天下統一後、
諸葛靚を自分の側近である侍中に招こうとします。
しかしあまりに諸葛靚がその誘いを断るものだから、
司馬炎の叔父にあたる司馬伷(しばちゅう)に嫁いでいた諸葛靚の姉に協力を求めます。
諸葛靚を招きたいという司馬炎の話を聞いた姉は、
これに同意し、諸葛靚を呼び寄せます。
諸葛靚はそうともしらず、姉の招きに応じて姉の元へいきます。
そこで諸葛靚と司馬炎は久々に顔を合わせ、司馬炎は語り掛けます。
「今日やっと会う事が出来た。
お互い小さい時は仲良くしていたもんだが、靚(せい)も覚えているだろ?」
これを聞いた諸葛靚は、「私は炭を飲んで喉を潰し、
顔や体に漆を塗って病人のように見せることもできずに、
今日という日にまた相まみえてしまった」と涙を流しながら返します。
これはどういう意味かというと、
春秋戦国時代に生きた予譲(よじょう)という人物の例えを用いたのです。
予譲は、仕えた君主の為に、
自分の命をかけて仇討ちを果たそうとした忠義の士でした。
横山光輝史記(史記列伝28P)より画像引用
これに恥じ入った司馬炎は出ていき、
司馬炎は、二度と諸葛靚を誘う事はなくなったそうです。
幼馴染みとはいえ、これだけの事を司馬炎に言った諸葛靚は、
冷静な人物というだけでなく、豪胆な人物でもあったのでしょうね。
司馬炎にこんなことを言ったら、
下手したら殺されてしまう可能性もあったわけですから。
予譲(豫譲/よじょう)
予譲は春秋戦国時代に生きた人物で、
自分を認めてくれる君主を求めて渡り歩きますが、
予譲には簡単な仕事しか任されず、
誰も予譲を重く採りたてる事がありませんでした。
そんな中、勢力を拡大していた智伯(ちはく)へ仕えますが、
予譲の才能を認め、「国士」として重く採りたてます。
初めて自分の才能を認めてくれたことに予譲は喜び、智伯の為に一生懸命働きます。
そして智伯は、宿敵であった趙襄子(ちょうじょうし)を倒すべく、
魏氏や韓氏と手を組んで、趙襄子が治めていた晋陽に攻めかかります。
しかし趙襄子は魏氏や韓氏を裏切らせ、智伯はあべこべに討たれてしまいました。
なんとか逃げ延びた予譲ですが、
自分の力を認めてくれた智伯への恩義を返すべく、趙襄子を討ってから死のうと決断します。
予譲はあれやこれや考えて趙襄子を殺そうとしますが、
すべてが失敗に終わる始末。
それでも仇討を最後まであきらめることはなく、
完全に叶わぬことだと分かると、趙襄子の前で自害して果てています。
横山光輝史記(史記列伝40~43P)より画像引用
この話は、趙全体に広まり、
予譲は忠義の士として多くの人に愛されたそうです。
そして司馬遷(しばせん)の残した史記の刺客列伝にも話が残り、
現在にまで伝わっています。
この刺客列伝には色々な人物の名が残っていますが、
秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻なんかは知ってる人も多いんじゃないかと思いますね。