張悌(ちょうてい)

張悌は荊州襄陽郡の出身で、孫晧によって、

呉滅亡の前年にあたる279年に丞相に任命されています。

三国史上最悪の皇帝と言われた孫晧は、具体的に何をしたの?

 

孫晧が呉最後の皇帝で、

ラストエンペラー(Last Emperor)ならば、

 

張悌は呉最後の丞相ということで、  

ラストミニスター(Last Minister)なんていえるかもしれませんね。

※ちなみに呉最初の丞相は孫邵

呉の初代丞相になった人物なのに、三国志正史に『伝』も立てられず、三国志演義にも登場しなかった孫邵(そんしょう)

 

呉滅亡の1年前に丞相に就任した張悌ですが、

そんな彼を最初に見出したのは諸葛瑾の子である諸葛恪だったとか

蜀の諸葛亮によって抜擢されたとかいわれています。

 

 

この二人で説が分かれているのは、

張悌を見出した人物が「後に丞相となる者」との言葉が残されているからです。

 

諸葛恪も諸葛亮も後に丞相となっている為、

実際どちらの抜擢だったかは実際はっきりしていません。

 

ちなみに諸葛亮の兄である諸葛瑾という説もありますが、

まぁ諸葛瑾は丞相にもなってない為、これだけはないでしょう。

 

 

今回はそんな呉に忠義を尽くして、

戦場で命を散らせた張悌について見ていきたいと思います。

蜀滅亡を予期する

263年、魏が鍾会・鄧艾に命じて、蜀討伐の軍を起こします。

この時、呉の多くの者達が「蜀が魏を撃退するだろう」と思っていました。

⑲蜀(蜀漢)の滅亡

 

しかしそんな中、張悌だけが異論を唱えます。

「おそらく魏が勝利をし、蜀は滅びるだろう」と・・・。

 

 

それを聞いた周りの者達は大笑いしたそうですが、

結果は誰もが知る通り、劉禅が降伏した事で蜀は滅亡します。

 

まさに張悌が予想した通りになったわけです。

晋軍襲来に際しての張悌の決意

 

それからしばらく時代が流れ、

279年に張悌は孫晧によって丞相に任命される事になります。

 

呉の丞相に任命されたはいいものの、

孫晧の恐怖政治によって呉の国力は非常に低下しており、

多くの優秀な臣下が孫晧によって殺害されていました。

 

それでも張悌は、

なんとか呉の国を立て直そうと懸命に頑張ります。

 

 

そんな矢先、張悌が丞相になった翌年の280年、

晋が六方面から呉へ侵攻を開始します。

  • 杜預(とよ)に荊州軍を指揮させ、江陵より侵攻させる
  • 王濬(おうしゅん)・唐彬(とうひん)に益州軍を指揮させ、長江を下り侵攻させる
  • 司馬伷(しばちゅう)に徐州軍を指揮させ、涂中(とちゅう)より侵攻させる
  • 王渾(おうこん)・周浚(しゅうしゅん)に揚州軍を指揮させ、横江・牛渚から侵攻させる
  • 王戎(おうじゅう)に豫洲軍を指揮させ、武昌より侵攻させる
  • 胡奮(こふん)に荊州の一部の兵を率いて、夏口より侵攻させる

 

 

これに対応すべく、張悌は沈瑩(しんえい)・諸葛靚(しょかつせい)・孫震を連れて、

長江を目の前に迎撃態勢を敷きます。

 

張悌は晋軍に攻撃すべく、長江渡ろうと試みますが、

沈瑩が長江を渡って晋軍に攻撃をしかける事がどれだけ不利かを張悌に説き、

晋軍が攻めてきた所を迎え撃つべきだと続けて進言します。

 

 

これを聞いた張悌は、

「今の現状で呉が滅亡するのは誰が見ても分かり切っていることだ。

ここは長江を渡って晋軍に戦いを挑むべきだ。

その結果として、国の為に死んだとしても本望ではないか!

 

もし長江を渡らず晋軍を迎え撃ったとしても、

士気が低い我が軍の兵士は逃亡してしまい、戦う事すらできなくなる。

それならば国に殉じた者が呉に一人くらいいてもいいだろう!!」

と沈瑩に答えます。

王渾軍(晋)VS張悌軍(呉)

 

張悌の気持ちを聞いた沈瑩は張悌の考えに従い、

長江を渡り、晋の張喬(ちょうきょう)軍を攻撃し降伏させる事に成功します。

 

この時諸葛靚が「張喬らの降伏は心から降伏したわけではなく、

一時しのぎにすぎないことから、今後の憂いを取り除く意味でも全員殺すべきだ」と言います。

 

しかし張悌は諸葛靚の言葉を聞き入れる事はなく、

王渾率いる晋軍と戦います。

 

この戦いで、沈瑩が「青巾兵」と呼ばれていた丹陽の5000人の精鋭部隊を3度にわたって、

王渾軍に突撃させましたが、打ち破る事ができませんでした。

 

そうこうしてるうちに、諸葛靚の心配していたことが現実となり、

張喬らが再度晋に寝返り、挟み撃ちにあった張悌らは惨敗を喫してしまいます。

 

 

諸葛靚が、かろうじて生き残った600人程度の敗残兵をまとめて、

張悌に一緒に引き上げるように声をかけます。

 

しかし張悌は、

「今日、私はここを死に場所と決めている。

 

自分が小さかった時、あなたの遠縁にあたる丞相に抜擢してもらったが、

何の働きもできず、その上死に場所も得られないかと心配していた。

 

しかし国の為にやっと自分の死に場所を見つける事ができた!」

と諸葛靚に言うと、張悌は晋軍に再度突撃して討死します。

 

諸葛靚に張悌が言葉をかけてから討死するまで、

諸葛靚は撤退を始め、100歩も進まないうちだったそうです。

 

ちなみにですが、

この戦いで沈瑩・孫震も国に殉じています。

司馬炎の幼馴染みであり、「孝」の道を貫き通した諸葛靚(しょかつせい)

張悌を見出したのは諸葛亮or諸葛恪?

最初に張悌を見出したのが、

「諸葛亮? 諸葛瑾? 諸葛恪?」みたいに書いてましたけど、

 

結局幼い時に張悌を見出したのは、

自分自身は諸葛亮である可能性が高いと思ってます。

 

諸葛恪は呉の丞相にはなっているけれども、

さすがに張悌の最後の言葉を聞くと、諸葛恪の可能性は明らかに低いでしょう。

諸葛恪は悲惨な最後を迎えていますし、死に様が綺麗でないですし。

山越の懐柔に大成功した諸葛恪

 

やはり張悌が最後に諸葛靚に話した内容からも、

諸葛亮以外は個人的には考えられません。

 

世間的な考えとしても、諸葛亮の説が濃厚になってきてはいます。

 

 

諸葛亮は、生涯に渡って、

「漢の再興」の為に劉禅を支えて戦い続け、

 

諸葛瞻(諸葛亮の子)と諸葛尚(諸葛瞻の子)が、

滅びゆく蜀の為に命を捧げ、

 

諸葛靚の父である諸葛誕は、

滅びゆく魏に忠誠を尽くして司馬昭に逆らい、魏の為に命を捧げ、

張悌自身も、呉の為に命を捧げる事ができた。

 

 

「終わりよければ全てよし」ではないんですけど、

最後に忠義を尽くして国に殉じた人達って、それだけで単純にかっこいいですよね。

 

だからこそ国と共に散っていった人達は、

忠義の士として、いつの時代も愛されているのだと思います。