孫夫人(孫尚香そんしょうこうについては、

正史にも「蜀志」の中という限られた記録しか残っておらず、

 

多くが三国志演義による装飾も多い女性です。

 

孫堅の娘として生まれ、劉備に政略結婚として嫁いだ孫夫人(孫尚香)ですが、

彼女はどんな生涯を送ったのかここでは見ていきたいと思います。

 

 

そもそも孫尚香という名前は、京劇などで使われていた名前であり、

陳寿の著した「三国志(正史)」では、孫夫人の名前で書かれてあります。

 

ちなみに「三国志演義」では、孫仁という名前で登場してますね。

 

またここでは孫夫人ではなく、

一般的に浸透している孫尚香で名前を統一して話していきます。

孫尚香(孫夫人・孫仁)

孫尚香孫堅の娘として生まれ、

孫策・孫権の妹としてこの世に誕生しています。

 

ちなみに父親は孫堅ですが、孫尚香の母親が誰なのか分かっていません。

 

 

また孫策・孫権の妹であるにもかかわらず、

「呉志」に全く記述が残されていない不思議な存在でもあります。

 

ただ女性については記載されていな事も当時は多かったので、

仕方ない所ではあるともいえますが・・・

 

 

孫尚香は非常に男勝りな性格で、周りとのトラブルも絶えなかったと言います。

 

また常日頃から武装した侍女を連れていたようで、

法を破ったりすることは日常茶飯事だったようです。

 

 

ただ先程も述べたように「呉志」には、孫尚香についての記載が全く見られず、

「孫尚香が嫁いだ」という記録すらありません。

 

あくまで「劉備の妻として孫尚香が嫁いだ」という話は、

「蜀志(法正伝)」「蜀志(穆皇后伝)」に記載されている事から今に伝わっている逸話になります。

 

 

上の事も法正伝には次のようにあります。

孫權以妹妻先主、妹才捷剛猛、有諸兄之風、侍婢百餘人、

皆親執刀侍立、先主毎入、衷心常凜凜。

これは「孫権は妹(孫尚香)を劉備に嫁がせたが、

妹は才気に溢れた人物で、剛猛について孫策らの面影があった。

 

また妹は侍女百人を従え、一人一人に刀を持たせていた。

劉備は奥に入室するたびに内心穏やかでなかった」という意味になりますね。

劉備と孫尚香

蒼天航路(25巻210P)より画像引用

 

劉備は聖人君主のようなイメージを持ってる人も多いでしょうけど、

 

任侠精神を持った聖人君主から、

かけ離れていた面もあったというのが本来の劉備の姿でもありました。

 

三国志演義では張飛が視察に来た督郵を殴った話がありますが、

もともとは劉備が木に縛り付け、二百回以上叩き続けたのが現実だったりします。

 

かつて劉備は戦いの中で何度も妻子を捨ててきた歴史もあったり・・・

 

 

そんな劉備でさえ、傍若無人で自分勝手な孫尚香は手が負えなかったどころか、

逆に妻である孫尚香を恐れていたというので、

 

おそらく私達がイメージする十倍以上の鬼嫁だった可能性は十二分にあったでしょうね。

劉備が安熹県の県令の際に、張飛が督郵を叩いた話は本当なのか!?

【特例措置発動】趙雲に目付け役を任せる

劉備は孫尚香を制御する事ができなかった為に、

劉備の親衛隊長として活躍してきた趙雲に孫尚香の目付け役を命じています。

 

はっきり言ってしまうと、

「趙雲ほどのものを目付け役にしなければいけない」

ってどんな女性だよって思ってしまう所があります。

 

 

ちなみにこれらのことは「蜀志」趙雲伝の注釈にある「趙雲別伝」に

「孫尚香は縦横にして不法であり、

劉備は趙雲に孫尚香についての内事を任せた」とありますね。

 

 

そして何より趙雲を目付け役として孫尚香の傍においていたというのが、

この時代を考えた際は特例中の特例でもあります。

 

何故ならば主君の妻が夫以外の子を生むような過ちがあっては絶対にいけないですし、

その為に宦官や女官に世話をさせていたのが当たり前だったからです。

 

 

趙雲がただ単に武勇に優れた者というだけではなく、

劉備から厚く信頼されていたからこそ任された任務であったのは間違いないでしょう。

曹操・孫権と並んで危険視された孫尚香

亮答曰:「主公之在公安也、北畏曹公之彊、東憚孫權之逼、

近則懼孫夫人生變於肘腋之下。

 

當斯之時、進退狼跋。

法孝直、爲之輔翼、令翻然翺翔、不可復制。」

「蜀志」法正伝には、

「劉備が公安にいた時、北に曹操、南に孫権、

更に内にあっては孫夫人の脅威があり、

 

その中で我が君が志を遂げたのは、

ひとえに法孝直の功績である」という諸葛亮の言葉が記載されています。

 

 

これは法正の功績を称えたものですが、

 

ここで注目したいのは、

曹操・孫権と並べて孫尚香への危険性が書かれている点です。

 

 

 

曹操と孫権は他国なので、蜀漢の脅威となるのは当たり前のことですが、

これと同列に劉備の妻である孫尚香を並べてる事がその異様さを物語っていますね。

 

ですが単純にこれを解釈すると、夫である劉備自身でさえも、

いつ殺されても不思議ではない程の危険人物だった可能性も少なからずあったのでしょう。

 

わざわざ陳寿が冗談で記録を残したなんて事は考えにくいですから・・・

孫尚香との離縁

そもそも孫尚香が何故劉備のもとに嫁いだのかなども不明ですが、

時期的なものを考えると、荊州南部を所有した劉備との関係強化だったのでしょう。

 

親子ほどの年齢差があったといいますから・・・

 

 

その後は自然消滅のような形で、孫尚香は呉へと戻って離縁しています。

 

この際に孫尚香が阿斗(劉禅)も一緒に連れて帰ろうとして、

 

「孫権は劉備が西征したと聞くと、大船で妹(孫尚香)を迎えさせ、

張飛と趙雲が長江を遮り、かろうじて阿斗(劉禅)を取り戻した」

という話が「趙雲別伝」に書かれてあったりもします。

 

他にも「蜀志」穆皇后伝の注釈にある「漢晋春秋」には、

「諸葛亮が趙雲に兵を率いさせ、

趙雲が長江を遮った結果、阿斗(劉禅)を取り戻した」

との記録も残されていますね。

 

 

 

ただ「蜀志」穆皇后伝には、

「先主既定益州、而孫夫人還呉」と短いながらも記録が残されており、

 

この記載を見る限り、劉備が益州攻略を成し遂げてから、

孫尚香が呉へ帰還したことになりますね。

 

またこの記述を信用するならば、趙雲や張飛も益州攻略に参加している点からも、

阿斗(劉禅)を取り戻すというのは現実的に不可能だと言えます。

 

その場合は注釈に加えられた「趙雲別伝」や「漢晋春秋」の記載は間違いということになります。

 

 

ただ二人が離縁して以降の孫尚香について、

劉備の発言なども一切記録に残ってないのは悲しい所ではあります。

 

だからこそ三国志を著した陳寿も、孫尚香を正妻として認目なかった結果として、

劉備の妻として列伝を残さなかった可能性が高いのでしょう。

 

普通ならば孫権の妹という立ち位置もあり、

列伝は残ってて当たり前の女性だと思いますからね。

 

 

その後、孫尚香が再び歴史の表舞台に登場する事は一切なく、

その後どういった生涯を歩んだのかは一切不明です。

 

これまで述べてきた事が、正史の中から読み取れる孫尚香という人物になります。

「三国志演義」での孫尚香

蒼天航路(25巻218P・219P)より画像引用

 

「三国志演義」では、呉国太の娘として登場している孫尚香ですが、

呉国太は三国志演義にのみ登場する架空の人物になりますね。

 

 

ちなみに呉国太は、呉夫人の妹にあたる女性として描かれ、

姉の呉夫人と共に孫堅に嫁ぎ、孫堅の側妻になり、

 

孫堅との間に誕生したのが、孫朗と孫夫人(孫仁の名で登場)の二人になります。

 

 

「三国志演義」では正史とは真逆の人物像で描かれており、

劉備を愛した孫尚香の姿が描かれています。

 

呉を脱出する際も長江のほとりにある先祖を祀りに行くと願い出て、

共に呉から脱出する形で荊州へと帰還に成功しています。

 

政略結婚であったはずが、劉備に魅かれていった孫尚香の姿があったわけですね。

 

 

劉備と孫権の関係が悪化すると、

娘を心配した呉国太の要望に従って孫尚香に帰国を促していますね。

 

ちなみにその際は「母親が病気である」と嘘をついて

孫尚香の心配を誘う形で・・・

 

その際に阿斗を連れていこうとする逸話も描かれていますが、

これは趙雲と張飛に防がれていますね。

 

 

騙された形で呉へと帰国した孫尚香ですが、その後も劉備を想い続け、

劉備以外の者と再婚する事はありませんでした。

 

また劉備が夷陵の戦いで死亡したという話を聞いた時は、

劉備の後を追う形で、長江へ身を投げ入れたなんて切ない最期で締めくくられていたりします。