糜夫人 -劉備の最初の正室-
劉備が陶謙の跡を継いで徐州を治めた際に、
陶謙の臣下だった者達をはじめ、多くの者達が劉備に従う事になりました。
ここから劉備に長らく付き従う事になる麋竺・糜芳もそうです。
ちなみに麋竺と麋芳の妹になるのが、この後に劉備の正妻となる糜夫人になりますね。
そして呂布が流浪の果てに徐州へと落ち延びてくると、
劉備は呂布を迎え入れていますが、
劉備が袁術と戦っている隙をつかれる形で徐州を奪われてしまいます。
この際に劉備の妻であった甘夫人も、
呂布に捕らえられてしまうこととなったのでした。
劉備と呂布が和解し、劉備が小沛城へと移ると、
資産家の麋竺・糜芳は、
劉備を助けるべく多額の金銭等の援助を行っています。
また妻が捕らえられてしまったということで、
麋竺・糜芳の妹にあたる糜夫人を劉備に嫁がせています。
またその後に劉備と呂布が再び争うと、再度劉備の妻子が捕らえられていますね。
そして呂布が曹操によって滅ぼされた後に、
妻子(甘夫人や糜夫人)が劉備の元に帰ってきたように書かれています。
劉備の妻子という名前は何度も登場したりしますが、
それが甘夫人や糜夫人でない妻を表してる場合が多いのが実情です。
名前の記録こそ残っていないだけで、劉備は何度も妻子を捨てていますから・・・
その中でかろうじて名前が伝わっているのが現在紹介している糜夫人であり、
甘夫人であったというだけの話になります。
ですので妻子の言葉からも分かるとは思いますが、
後に誕生する劉禅以外にも息子がいた可能性も十二分にあったと思います。
ですがその息子はその時々で処刑されたのかもしれませんし、
生き延びたのかもしれませんが、その後表舞台に登場しなかった者達ばかりです。
また甘夫人の方が先に劉備の妻になってはいたものの、
正室ではありませんでした。
身分の低い家の出身であった甘夫人は、あくまで側室という立場であり、
糜夫人が劉備の正室として迎えられています。
これは劉備だけに関わらず、
家柄を重視していた当時の時代背景として当たり前の事だったりします。
しかし劉備が曹操に反旗を翻すと、あっさりと敗北し、
糜夫人や甘夫人は曹操に捕らえられています。
この時に下邳を守っていた関羽も曹操からの降伏を受け入れているのは余談です。
ちなみに正史に残っている糜夫人についての記録はこれだけであり、
その後の糜夫人の動向については分かりません。
ただ関羽がその後に劉備の元へと戻っている事を考えると、
糜夫人も甘夫人と共に劉備の元へと戻って再開できたと考えるのが自然だと思います。
ただそのあたりも含めて色々と想像するしかない所ではあります。
「三国志演義」での糜夫人
「三国志正史」では曹操に反旗を翻して敗れた際に、
関羽と共に曹操に捕らえられた糜夫人ですが、
その後に劉備の元へと戻ったであろうことは推測ではありましたが、
「三国志演義」では関羽と共に曹操の元をきちんと去った描写がされています。
関羽の千里行でも分かる通りの展開ですね。
その後は劉備とも再開を果たし、
劉表のもとで平和に暮らすことになった糜夫人でしたが、その平和も長くは続きませんでした。
曹操が荊州へと侵攻してくると、長坂の戦いで大きな損害を受けた劉備軍でしたが、
混乱の中で阿斗を抱いた糜夫人は劉備とはぐれてしまったのでした。
また糜夫人の兄であった糜竺や甘夫人も捕らえられますが、
趙雲によって無事に救い出されています。
そして次に阿斗を抱いた糜夫人を発見するも、
糜夫人は左足を槍でつかれていたこともあり、自由が利かない状態でした。
そこで糜夫人が取った行動は、阿斗を趙雲に託し、
「自らは近くにあった井戸に身を投げて命を絶つ」
という末路を辿っています。
正史では劉備が曹操に敗れて以降の糜夫人の動向が不明であり、
その後も登場しなかったことから、
「阿斗を託して自ら命を落とす」という最期の役割が与えられたのでしょうね。
甘夫人(甘皇后/かんふじん)
陶謙が劉備を豫州刺史に推薦したあたりで、劉備の妻になったのが甘夫人でした。
大体の時期は194年になると思うので、
糜夫人よりも先に劉備の妻となった女性ですね。
ただ甘夫人が劉備の最初の妻であったかというと、
実際はそれ以前にも正室がいたみたいな記載がされているので、
何度か妻を娶っていたのでしょうし、子供もいたと思われます。
しかし現在記録が残ってる限りで、
最初に劉備の妻として名前が正史に残ってるのは甘夫人になります。
そんな甘夫人でしたが、身分の低い家の出身であったことからも、
正妻の扱いをされることはなく、あくまでも側室としての立場であったのです。
それは後に糜夫人を正妻として、新たに劉備の妻として迎えた事からも分かる通りです。
この一点だけを見ても分かる通り、家柄が名門出身であったかどうかが、
非常に重要視されていた時代だったわけです。
そして劉備が荊州の劉表のもとへ流れていき、
束の間の平和を過ごす中で、甘夫人は阿斗(後の劉禅)を産んでいます。
しかし曹操が荊州へと攻め込んでくると、
長坂の戦いで劉備は自分の妻子を捨てて逃亡するわけですが、
趙雲が阿斗と呉夫人を助け出した事でなんとか命拾いする事となります。
ただこの時に別で劉備の二人の娘は救出されておらず、
その後どうなったのかは完全に不明ですね。
戦利品として誰かの妻とされたのか、処刑されたのか・・・
もしかしたら「この時の二人の娘が糜夫人の娘だった」という可能性は、
少なからずあるかなとは思ったりしています。
完全に推測するしかない所ではあるのですけどね。
ただ甘夫人は側室でありながらも、一番長く劉備に連れ添っていたことからも、
表向きのほとんどのことを甘夫人が取り仕切っていたといいます。
そんな甘夫人でしたが、
長らくの疲れがたまったからなのかは不明ですが、
赤壁の戦いの勝利後に、
劉備が荊州南部の四郡制圧に成功したあたりで亡くなったと言われています。
その際に埋葬された場所が南郡だとも記録に残されています。
その点を考えた場合、
劉備は南郡(江陵)を孫権から借用しているのが周瑜死後なので、
甘夫人が亡くなったのはこのあたりの頃でしょう。
おそらく甘夫人は、劉備の長い人生の中で、
初めて自分自身で見つけて娶った女性だったのでしょう。
そして劉備に長らく付き従ってくる中で、
側室という立場でこそありましたが、劉備から一番の愛情を受けていたと思われます。
だから劉備の中でも甘夫人が特別な女性だったのは間違いありません。
そんな甘夫人が埋葬されたお墓ですが、
222年に「皇思夫人」の諡が送られ、益州に移葬されています。
ちなみに222年と言えば、
劉備が夷陵の戦いで陸遜に大敗した年ではありますが、
劉備と孫権はその後に和議を結んでいます。
荊州を取り戻すことができなかった劉備は、
おそらく次期皇帝となる劉禅の母親である甘夫人が、
敵領地である荊州に墓を置いたままにしておく事を避けたかったのでしょう。
おそらく両国の話し合いの中で、この点についても許可を貰ったと思われます。
そしていざ実行に移されたわけですが、
甘夫人(皇思夫人)の遺骨が到着する前に、劉備が223年に亡くってしまいます。
そして劉備と甘夫人は、合葬される流れとなったわけです。
劉備を昭烈皇帝として、そして甘夫人を昭烈皇后として・・・
ただ昭烈皇后はあくまで合葬の際に劉備に合わせてつけられたものに過ぎず、
甘皇后と呼ぶのが正確な所であるのは余談です。
「三国志演義」での甘夫人
糜夫人同様に劉備が曹操に反旗を翻した際に、曹操に劉備は敗れるわけですが、
関羽が甘夫人や糜夫人の安全を保障する事を条件として曹操に降っています。
その後に劉備の生存を確認すると、「関羽の千里行」でも知られる通り、
糜夫人や甘夫人を伴って苦難の道をたどりつつ、最終的に劉備のもとまで甘夫人らを守り通しています。
そして曹操が南方攻略に乗り出した際の長坂の戦いで、
甘夫人も敵軍の捕虜にはなっているわけですが、
運よく趙雲に救われて、なんとか逃げることに成功しています。
劉備と孫権が赤壁の戦いで曹操に勝利しますが、
劉備は荊州南部の攻略に乗り出したあたりで、甘夫人は亡くなっています。
そして周瑜がそのことを引き合いに出して、
劉備は孫権の妹である孫尚香(孫氏)と結婚させる流れへと向かうわけです。