定軍山の戦いで黄忠に討ち取られた夏侯淵の息子であった夏侯覇(かこうは)は、
魏の名門夏侯一族ということもあり、魏の中で順調に出世をしていきます。
その上、夏侯覇は弓馬の腕に秀でていた夏侯覇は、
父であった夏侯淵の面影があったそうです。
夏侯覇、蜀へ降る
夏侯覇は父の仇であった蜀への恨みを晴らすことだけを考えていましたが、
249年、司馬懿によって曹一族であった曹爽らが皆殺しにされるという事件が発生します。
そして曹爽の一族でもあり、夏侯覇の一族でもあった夏侯玄が
役目を下ろされて中央に召し抱えられました。
そしてその代理として夏侯覇とうまくいっていなかった郭淮が据えられると、
自分の身が危険な状態にあるのではないかと疑心暗鬼に陥ります。
そして夏侯一族であった夏侯覇が、
普通ならばありえない蜀への投降を決意します。
ただ亡き張飛の妻であった夏侯氏は、もともと名門であった夏侯一族であり、
二人の間にできた二人の娘はどちらも劉禅の妻になっていました。
その事から魏では夏侯一族でありながら、
蜀では皇帝劉禅の親戚にも当たる人物でもあったわけです。
そういうこともあり、夏侯覇は魏からの降将でありながら、
蜀で順調に出世していき車騎将軍にまで昇りつめていきます。
個人的には出世のスピードがあまりに速すぎる気がしますが・・・
劉禅の親戚にあたった夏侯覇であればあり得ない話でもないですね。
夏侯覇、張嶷に想いを伝える
夏侯覇には、魏にいた頃から直接話した事はなかったものの、
どうしても会いたい人物がいました。
それは蜀に仕えていた張嶷という人物です。
張嶷(ちょうぎょく)は南蛮平定で活躍し、対魏としても活躍した人物でした。
しかし張嶷の役職は盪寇将軍に留まっており、
車騎将軍にまで出世していた夏侯覇と比較すると役職的には下でした。
しかしそんなことは夏侯覇にとって全く関係なく、
張嶷の元を訪れた事がありました。
そして夏侯覇は、
長らく心の底に置いていた気持ちを張嶷に伝えます。
「私と張嶷殿は魏と蜀に別れており、これまで話す機会がありませでしたが、
私は馬忠殿を古くからの親友のような気持ちで慕っています。
どうしても私の気持ちを伝えておきたかったので、
今回訪問させて頂きました。」
これを聞いた馬忠は、
「私自身、夏侯覇殿がどういう人物か分かっていないし、
逆に夏侯覇殿も私の事を理解してないと思いますよ。
もし今の気持ちが今後も覚めないようなら、また三年後に同じ言葉をかけて下さい」
そう言われた夏侯覇は、
「分かりました。大事な事を教えて頂いて有難うございます」と言い残すと、
蜀の為に一生懸命に戦い続けました。
張嶷、病を推しての出陣
それからしばらくして、張嶷は重い病にかかってしまい、
馬に乗るどころか歩く事もままならない状態になってしまいます。
そんな中で254年に姜維が北伐をする際に、
張嶷は劉禅に病を推しての出陣の許可を願い出ました。
「私はいつこの世を去るかもわからない。
いつ果てるとも分からないこの命を蜀の為に使わせて頂きたい。
今回の北伐が成功して涼州を平定する事ができたならば
私は涼州から蜀を守る守将となりましょう。
もし仮にうまくいかなかったとしても、蜀の為にこの命を捧げます。
どうか北伐に参加する許可を頂きたい。」
この張嶷の言葉を聞いた劉禅は思わず泣いてしまったそうです。
それだけの心意気を示した張嶷の気持ちを尊重し、
北伐に参加することを劉禅は許可しました。
三年越しの張嶷の返事
姜維らが北伐を開始し、一進一退の攻防が繰り広げられていた中、
蜀軍らは次第に郭淮・陳泰・徐質らに押されていきます。
これ以上戦うのは無理だと判断した姜維は退却を決意します。
その際に追手を防ぐ者が必要になるわけですが、重病であった張嶷が立候補します。
姜維は張嶷が重体であることからも厳しいと言い出すも、
張嶷が引き下がる事もありませんでした。
「劉禅様へのお別れも既に済ませてある。
だから例えここで死んだとしても思い残すことはないのです。」
張嶷の強い意志を尊重した姜維は、
殿(しんがり)の役目を張嶷に任せることにしました。
張嶷は歩ける体ではなかった為、御輿に担がれる形で指揮を取り出します。
そんな張嶷に夏侯覇が一言「ご武運を!!!」と声をかけました。
そして張嶷の元から去ろうとした夏侯覇に対して、
「夏侯覇殿、色々ありがとう。
今の夏侯覇殿ならば、前に私に言ってくれた言葉を受ける事ができますよ」
と今の自分の想いを言葉として伝えます。
「今度はあの世で二人でお会いしましょう」と言うと、
魏の軍勢に向かって指揮を取りだします。
夏侯覇は涙を流して張嶷の元を去ったそうです。
張嶷の最後
重体の身での指揮は思うようにいかず、
御輿を担いでいた者達が倒され、張嶷はその場に投げ出されてしまいます。
張嶷は周りの者達に「味方の状況はどうなっているか?」と尋ねると、
「なんとか蜀軍の大半は退却に成功しましたよ」と返します。
それを聞いた張嶷は、「ならばよし」と言い残すと、
張嶷は徐質らによって討ち取られてしまいます。
張嶷が亡くなったにもかかわらず、
張嶷軍は魏軍に対して勇猛果敢に戦い続け、追手を蹴散らしました。
この時、張嶷軍が受けた被害の数倍の魏軍が討ち取られたそうです。
蜀に降った夏侯覇が表向きの付き合いを望んだのに対して、
張嶷は、本当の付き合いというのはこういうものだという事を身をもって教えたのでしょうね。
張嶷を夏侯覇が訪れた時期の推察
張嶷が戦死したのが254年で、
その三年前だとなると251年の話になりますが、
夏侯覇が蜀に降ったのが249年なので、
二年の間で車騎将軍にまで出世した事になる。
上でも書いたけれども、さすがにスピード出世すぎます(笑)
まぁ夏侯覇のスピード出世は置いておいて、
この時(251年)の張嶷は、おそらく南蛮統治に当たっていた可能性が高いと思うので、
夏侯覇が張嶷にどうしても会いたいが為に訪問したのかもしれませんね。
それか一時的に張嶷が成都に帰還する機会があって、
その時に夏侯覇が尋ねていった可能性も普通にある気がします。
このあたりの年代についての記録が残っていないので、
あくまで推察になってしまいますけどね。