張嶷(ちょうぎょく)

張嶷は益州巴西郡出身で、張嶷の家は貧しい生活をしていたようです。

 

ただ張嶷は、若かりし頃から見どころのある人物で、

ある時山賊が暴れており、そこを任されていた県令が家族を逃げる事件が起こります。

この時、張嶷は県令の家族を助け出し、安全な場所まで避難させました。

 

これを聞いた劉備は、張嶷の事を高く評価し、

従事に取り立てています。

 

 

その後も益州では賊が暴れる事件が多発しますが、

張嶷は何度討伐に乗り出します。

 

ただ族が逃げてまた暴れる事の繰り返しだった為に、

張嶷は一計を案じました。

 

そして一計を案じた張嶷は、賊らに対して和睦を呼び掛けたわけです。

 

ただこれはもちろん張嶷の罠であり、

そうとはしらない賊は、和睦の為の酒宴に参加したわけですが、

そこを張嶷は襲って、賊をまとめて退治してしまいました。

 

これらの賊討伐の功績から馬忠は、牙門将軍に任命されています。

劉冑討伐に成功

 

233年、張翼が統治していた南方地域で、

劉冑(りゅうちゅう)が主導する形で異民族の反発がおきます。

蜀の末期を必死に支え続け、劉備の入蜀から滅亡までを見届けた張翼

 

この時に張翼に代わって討伐を任されると、

張嶷は馬忠と共にこれにあたり、劉冑を斬り捨てて鎮圧することに成功。

 

この劉冑討伐でもそうでしたが、

張嶷は馬忠に従って賊討伐を任された事が多かったようです。

 

その後も賊退治のスペシャリストとして張嶷は活躍していきます。

 

ちなみにですけど張嶷と共に賊討伐を任されていた馬忠も、

賊討伐のスペシャリストでした。

文武に優れ、南方制圧で異民族に慕われた馬忠

 

 

張嶷はそれ以後、南方統治を長く任される事になります。

これは諸葛亮が生きていた時から死んだ後まで続きます。

 

張嶷は恩徳と威信を使い分ける事で多くの異民族を従わせることに成功しています。

 

 

また従わない異民族に対しては時には計略を使い、

時には武力を行使して撃ち破っています。

 

南方では蜀に従わない者達も多く、

郡として機能していない所も多かったのですが、

張嶷が赴任した郡は、全て郡として機能するようになったそうです。

 

 

また長らく南方で独占状態になっていた塩鉄や漆といった資源の確保に成功し、

蜀に大きな利益をもたらしています。

 

一つ一つをあげたらきりがない程に、

張嶷の南方での功績は計り知れないものでした。

異民族に涙を流させるほど慕われた張嶷

 

その後に張嶷は盪寇将軍に任命され、中央に戻される事となります。

 

この時張嶷が成都に戻ると知った異民族達の多くは、

涙を流して別れを悲しんだと言われています。

 

ちなみにですけど、諸葛亮が南蛮制圧の際に、

孟獲らを心から従わせて南蛮平定した際の話は、

 

実はこの張嶷の南方統治があまりに優れていたことから、

それを諸葛亮の話にねじこんで、見事にパクってます。

張嶷の最後

姜維の北伐が本格化していくと、張嶷も北伐に参加するようになりますが、

254年の北伐では、重い病にかかっていたにも関わらず劉禅に出陣を願い出ています。

 

結果として北伐は失敗に終わるんですが、

この時の張嶷は、歩く事もできない程に病魔に蝕まれていたにもかかわらず、

殿(しんがり)を引き受けて、御輿で担がれた状態で指揮をしたようです。

 

その後御輿を担いでいた者達が殺され、身を投げ出された張嶷は、

徐質らによって討ち取られてしまいます。

張嶷が夏侯覇を「親友」と認めた三年越しの絆

 

この時、張嶷が魏の徐質に討たれたにもかかわらず、

 

張嶷軍の士気は衰えず、魏軍と戦い続け、

張嶷軍が受けた被害に対して、数倍の被害を与えています。

 

張嶷の死を知った南方の異民族らは、張嶷の死を大変悲しみ、

張嶷の功績を称える為に廟を建てて祀ったそうです。