孫権・劉備連合軍が赤壁で曹操を破ったことがきっかけとなり、
劉備は荊州南部を制圧し、
その延長線上で諸葛亮が描いた天下三分の計を実現すべく益州攻略へ乗り出します。
その後、劉備は益州攻略を成し遂げ、
中国を三つに分けて覇を競う天下三分の計が実現するというのが史実ですが、
赤壁の戦いに勝利した周瑜は、
「天下二分の計」という壮大な計画を考えていました。
ここでは周瑜が描いた天下二分の計が、どんなものだったかを見ていきたいと思います。
目次
赤壁の戦いでの勝利
208年7月、曹操が天下統一を果たすべく南方攻略に乗り出しました。
まず曹操は、荊州を治める劉表を攻める為に出陣するわけですが、
それから間もなくして劉表が亡くなり、劉琮が跡を継ぎます。
しかし劉琮は戦わずして曹操に降伏してしまい、
荊州軍を吸収した曹操は、
荊州から南に逃げた劉備と揚州を治める孫権を討伐すべく兵を進めました。
これに対して危機感を抱いた孫権と劉備が同盟を組み、
赤壁の戦いで見事に勝利を掴みます。
ちなみに赤壁の戦いで勝利に導けたのは、
孫権に仕えていた軍師であった周瑜の功績が非常に大きかったのは言うまでもありません。
赤壁の戦いで諸葛亮が大活躍をし、
周瑜をあしらったような記載は、ほぼ三国志演義での創作に過ぎません。
周瑜の誤算
曹操軍を赤壁で破った周瑜は、
曹操に降伏した荊州を奪うべくまずは曹仁が守る江陵に目をつけますが、
江陵攻略に一年あまりの時間をかけてしまいます。
周瑜が江陵攻略にてこずっている間をチャンスとみた劉備は、荊州の四郡を攻略。
これは周瑜にとっても大きな誤算だったようですね。
そして、なんとか傷を負いながらも江陵を占領した周瑜は、
孫権に劉備をうまく丸め込んだ上で、
劉備に仕えていた関羽と張飛を自分の指揮下におくという策を孫権に献策するも、
さすがに失敗すると考えた孫権はこれを却下しています。
しかしその上で、「天下二分の計」を唱え、孫権もこれを許可。
「やっとこれから!」というこの瞬間に、周瑜は急死していしまいます。
曹仁との戦いで負った傷が悪化した為だとも・・・
周瑜の死によって、周瑜の跡を継いだ魯粛により、
劉備と同盟を結んでいくという路線が維持されることになります。
周瑜の描いた「天下二分の計」の大構想
劉備が荊州四郡を手に入れたことは周瑜にとって誤算ではありましたが、
ただ周瑜にとって劉備などは眼中に全くありませんでした。
曹操が赤壁で敗れたこともあり、
曹操軍がすぐにまた戦争を仕掛けてくることは考えにくく、
その間に、曹操を倒せる体制を構築してしまおうと考えます。
では周瑜の死によって実現する事が叶わなくなった「天下二分の計」ですが、
実際どのような構想だったのでしょうか!?
第一構想:益州攻略
周瑜の「天下二分の計」を実現する為に、
まず第一段階として考えたのが劉璋が治める益州を攻略。
後に、益州は後に劉備によって攻略されますが、
はっきり言って劉備の兵力でさえ攻略できたのだから、
周瑜が益州攻略に乗り出していれば、十中八九攻略できたと思います。
なぜなら益州攻略を可能にできる智謀を周瑜は兼ね備えており、
劉備軍と比較にならないほどの軍勢を率いる事が出来た点を考えると、
劉備が後に益州攻略を成し遂げるよりも遥かに現実的です。
第二構想:劉備・漢中の張魯の併合
益州を攻略した事で、荊州南部を治める劉備を完全に吸収。
まぁ実際劉備は孫権の妹である孫尚香を妻に迎えており、
既に孫一門といっても過言ではないわけで、
孫権が益州を平定すれば、
自然に劉備は孫権に仕える以外に選択肢はなくなります。
諸葛亮が描いた「天下三分の計」も夢物語に消えたわけですから、
それしか劉備の生き残る道もなかったでしょう。
そしてそれと同時に、漢中を治めていた張魯を同時に併合。
もしそれが叶わなければ武力行使で攻略。
第三構想:馬超と同盟を結び、曹操を共に攻める
益州・荊州・漢中を手に入れたことで、
三方から曹操を攻める事ができるようになるわけですが、
ここで曹操に抵抗していた馬超などの涼州勢力と同盟を結び、
曹操を共に攻め込むことを提案。
馬超などにとっては、断る理由はないでしょうし、
ここまで周瑜の読み通りに進んでいれば間違いなく実現したでしょうね。
第四構想:曹操に勝利
馬超と結んで共に曹操を攻め、
これで曹操に勝利する事で、天下のほぼ大半を手に入れる事ができます。
曹操をなんとか倒すことに成功すれば、
この段階で天下統一が成し遂げられたと言っていいと思います。
最終構想:馬超を恭順させて天下統一
最後は、曹操打倒の為に同盟を組んでいた馬超ですが、
孫権に従う以外の選択肢はもう残されていないと思われます。
例え従わなかったとしても、
馬超にできることは滅びの道以外になかったでしょう。
馬超を従わせることをもって、完全に天下を統一を成し遂げるというものでした。
「天下二分の計」実現の可能性
周瑜の描いた「天下二分の計」は実行されていれば、
かなり高い確率で劉備・張魯の併合まではいけたと思います。
その時涼州で馬超がまだ勢力を維持できていたとしたら、
馬超の協力も高い確率で得られたでしょう。
そこから曹操との直接対決ですが、
ここがすんなりいったかどうかは分かりませんが、
周瑜の大構想として、この状況まで持っていく事をまず考えていました。
当時、天下三分の計よりも、はるかに現実性が高かったと思いますね。